憑依されたメディア7



マックス・ヘッドルームの話を懐かしく読む。80年代末から暫く話題になったテレビのなかのポストモダン的主体モデル。
今で言うと、TVの住人であるタモリみたいなもの。
…違うか。でも少し似ている。


■憑依されたメディア

 ようやく第4章「Static and Stasis」へ。
 本当はここを読みたくて買ったのだが、全体が面白くてついついここまでまとめてしまった。で、視覚メディアに憑く霊、あるいは憑かれた視覚メディアの話から。

・心霊テレヴィジョン
 1962年のTV修理サービスの広告にこんなものがある。「おたくのテレビに幽霊は出ていませんか?」という言葉。家のシルエットの上には白い幽霊が漂っている。こうしたTV霊は電気メディアについての不気味な想像のなかで最もなじみのものである。電波障害をこうむったTVセットに出現する微かなイメージ、それが別の惑星や別の次元からのエコーとみなされたのであった。実はTV時代の初期である50年代以来、TV心霊の実際の事件(1954年ある家庭のTVに亡き父の姿が映る)、それを基にした物語(『TVのなかのフィル叔父さん』(1950年代半ば))は多数存在する。

 ではこのメディアは、従来のメディアとそれと結び付られた不気味な力とどのような関係にあるのか? 両者は共通した面ももつが、視覚という側面が加わった点がまずひとつ違う。また第二に、一方で電信や電話やラジオは隔たった場所を指し示すとすれば、TVは、それが電気であり不在であるにもかかわらず、「リアル」とみなされた点にある。電気的などこかにある場所がここにある。それは実体なき像であるTVの霊に住まわれている。そういうリアルさである。

 電気的現前の捉え方も少し異なっている。これは、次のことを考えれば明白になる。
 心霊電信メディアではメディアそのものは中継手段とみなされていた。ところがTVはそれ自身が超常現象そのものとみなされるのである。TVはそれ自身憑かれたメディアになる。さらに言えば、明瞭に現前しているが不在であり、恐ろしく生き生きとしているが生きてはいない、さまざまな境界(生物と非生物、リアルと非現実、其処と非其処との境界)を非決定的なものにしてしまう強い現前性、それが憑依されたTVメディアでは問題となる。

 1930年代、TVに関する言説がつむぎ始められたときから、TVはその妙に生々しい性質、不気味な相互性(こちらがあちらに、あちらがこちらに入り込むということ)を強調されていた。1950年代に各家庭にTVが入り込むようになっても、この生々しさ、そこに居合わせる性質、一度に二箇所に居る経験の強調は続いている。さらには、実体なき形、距離なき空間、生なき視覚を兼ね備えたTVそのものが、それ自身で生々しいものとみなされていた。
 1960年代初頭までの言説を辿れば、TVへの批判が、視聴者をどこでもない無限に広がる電気的などこでもない非場所へと引き込み、そうした空虚な空間の中で受動的で、感情の欠けたある種の宙吊りに置く、そうした言葉を読み取ることができる。こうしたTVへの不安の醸成は、同時期のホラーやSF作品に如実に現れている。
ミステリーゾーン(1) Twilight Zone [DVD]
 TVシリーズ『トワイライトゾーン』は、冒頭でオカルト的な時間を欠いた、無限の空間、昼でも夜でもない、科学でも迷信でもない、そうした間にある広がりのなかに視聴者を引き込む仕掛けを用いていた。30分の視聴は30分のそうした虚の時空間の彷徨でもあった。作品そのものも、TV以前の憑依メディアを題材としたものが多い。
 例えば、『遠距離電話Long Distance Call』(1961)では祖母が孫に渡した電話を通じて死後の祖母と会話し、『ノイズに憑かれた男Static』(1964)ではTVに倦んだ男が40年前のラジオで40年前の放送を聞き、『真夜中に呼ぶ声Night Call』(1964)は死者となった恋人からの電話を女性が受け、『狂った映像What's in the Box』(1964)ではTVで未来の映像を見る男の話になっている。別世界への不気味な窓として、忘却の地、ある種の煉獄としてTVは描き出される。

 他方、『アウター・リミッツ』では、これも冒頭から別世界へのいざないがある。あの「これはテレビの故障ではない。画像・音声すべて我々がコントロールしているのだ」と視聴者を引き込む言葉があり、TV放送と新たな電気テクノロジーの不気味な側面が強調される。さらに言えば、このシリーズは元々、『Please Stand By』、つまり何らかの大事故大事件のために中断された際にTVで流れる「暫くお待ちください」、何らかのカタストロフの勃発とTVの関係を示唆する言葉だったという。TV外の現実とTV内の非現実がこのようにしてつながれる。
 この著者によれば、当時社会や市民が直面していた三つの未知の領野、辺境がある。それは宇宙開発競争、核による終末の危機、郊外化、核家族化による社会の単位の再編成であった。際限のない辺境の空間と終わり以後の時間へとTVを通じて閉じ込められる、投げ出される、それが最初期のTV視聴者がこうむった不安定さであった。