ゾンビ・ホラー・MR


■ゾンビもの
ゾンビ立体映画が上映され、せっかくだからその次には卒業生が教えてくれた『ゾンビーノ』もリストに加える。予告編をごらんあれ。

■積み残しホラー
 次のTV/ビデオ/ホラー論のノート作りのためにいくつか映画をこなす予定。
 その前に、もう忙しくて見れなかったこのビデオ(呪怨ビデオ版2)を見る。ビデオ版のほうが映画版よりアングルは面白いが、映画版のほうがまとまりや道具立ては面白い。これはミクシにて。『Loft』の記録映像シーンも見直す。
 呪怨2 [DVD] LOFT ロフト デラックス版 [DVD]

■MR補遺
 MR論ノートをひとまず終える手前に、以前『現代思想』に掲載された論文が所収された新刊情報をいただく。ひとまず買って読む。『マトリックス』と『MR』を比較した論考。Mr.アンダーソンとアンダートン論とでも呼べるだろう。犯罪予防局がなくなろうが、消費社会もセキュリティシステムも残り、選択の自由という幻想=消費の自由を肯定するだけのイデオロギー的な映画である…という議論。一面では可能な批判だろうと思う。
 イメージの帝国/映画の終り (見えない)欲望へ向けて―クィア批評との対話
もちろんここで既に挙げた他の論文からの逆批判もあるが。

 また、そのほかにも、ヒッチ作品とMRとのちょっとした関係について言及できないか。そして、ジジェク/コプチェク的な議論を引き継いだ門林論文も、少し最後におりまぜられないか考えてみる。つまり、ひとつの不在や孔を中心にして欲望に促されながら換喩的に折りたたまれている記号の連鎖とそれを塞ぐマスターシニフィアンという密室空間と、無数のうがたれた孔とあふれだす記号と享楽と欲動の支配するノワール時空間電子版とそのほつれについてということ。
 MRにでてくる牢獄の囚人たちは、一面で映像の囚人であるが、彼らがおさまっている巣穴的、多孔的棺は、まるで地中深く掘られた墓のようなのである。これも死者の蘇生的道具立て。多孔的時空間、それは門林論文が挙げていた論点である。
 最初にあげた論文が批判的に述べる未来すら再現される現在的視点は、こういう論点からつつくこともできるかもしれない。
 急に思い出して村山氏の本も読む。欲望と欲動をつなぎ動かせる議論。眼をころがすための議論。