キティもの等


学生にご当地キティをもらう。東京バナナのコピー品大阪バナナのさらに縮小化「大阪プチバナナキティ」。とても珍しい一品だそうだ。感謝。
…私がつけているとファンシー&ヤンキーである。

■ミュージカルメガネ書
 そんなわけで発表ゼミ。
 今日はミュージカルとメガネと書の発表。
 この時期、軸が定まっていないとたいへんなことになるので、そんな全体的なことばかりコメントする。
 最初の発表については、現在におけるミュージカル映画の一部での隆盛は、果たして現在形なのか、それは従来のそれとは違い、感情の高ぶりや内面をテンション高く歌い上げるのではなく、まことしやかに物語的情報を手際よく詰め込み流すための手法なのか。一面ではそれも分かる。でも、あの超絶技巧を駆使するスターの輝きがすでにここでは黄昏色に染められており、それをノスタルジーのなかで享受しているのではないのか。どうみてもリチャード・ギアのダンスは、昔ダンスやってましたねん的な歩みに見えてしまうのであった。ギアファンには申し訳ないが。
 メガネは、現在のメガネ美意識と過去の、古典的なメガネ美意識とかっちり対照させると、6合目までは定まりそうだった。メガネ分類が楽しめた。それはここ。メガネの記号のレパートリーがこんなふうにできあがっている。メガネ記号が内から外へ裏返された地点に鋲を打つにはどうしたらいいのか、、、そんなことを考える。
 書は、永遠に交わらない書と絵画を、当の書家/画家が外部へ行って内部に戻ってきた結果、その対立を反転させていたとしたら面白いと思った。そういうきりもみの跳躍を推測してみる。
 そんな妄言を3時間喋って終了。

■電気論
 Sconceの電気幽霊論 第二章を読み直す。
 電気の匿名の海につながれていはするが、そのどこまでも深いが、奥行きは分からないため、表層的な水面となった大海原において隔絶されている、実に憂鬱な聴取者のエピソードを集める。実に暗い。遠隔通信のシグナルをその漂流する船で釣り上げることをDX fishingというそうだ。あの『コンタクト』冒頭の無線少女が想起される。
 しかし、この憂鬱な電気の海の表象としてもっと近しいのは深夜ラジオかもしれない。ただし深夜ラジオの話が現在の学生にどこまで通じるのだろうかは微妙。今、ラジオを聴くことはどんなことになっているのだろうか。それが気にはなる。と思いANN(オールナイトニッポン)の現在も調べてみる。
 ついでに『深夜のメロディ(Play Misty For Me)』も取り出して見る。拾うところが多かれ場、そのタイトルの楽曲(霧)の意味合いも含めて論じることにする。