Rolling over Photography

昨日一昨日今日と3日連続の飲み会。今日は神戸で飲み。
というわけでさすがに内臓がしくしくしだすので薬を服用。

■講演会
 昨日は以前紹介した写真家畠山氏の講演に行く。
 新作を含めた写真と都市の肌理の話をひとしきり聞く。
 考える写真家と僕らは畠山さんのことを呼んでいる。その理由は、世界と人間と像、その技術、そのずれや摩擦についての哲学的な考察が、あらかじめのコンセプトや理論からというよりもむしろ、写真のうえで幾層ものレイヤーの重なりのなかで、鋭角的に立ちあがってくる、そんな感じをもったりするからだと思う。
 その後の皆さんの飲み会にも混ぜてもらう。
 前回大阪の杉本氏の講演ではトルボットへの言及が、今回の講演ではナダールへの言及が何度もなされている。そうした過去の巨匠たちをとりまく19世紀写真の言説は、まだまだ掘り起こされてはいない、研究者であるひとびとは、こうしたことをもう少し淡々と紹介していかなければならないといつも痛感する。写真が帯びていた複数の方向性をあぶりだすバッチェンの本を訳さねばならないのもそういうことにつながると思う。

 で、他にも、写真家の「生存」のこと、講演で触れられた織物としての写真、プレゼン用のスクリーンの機能転換のこと、デジタル/アナログのこと、いろいろな話を聞き話す。最後は妄言を吐いていたかもしれないけど.
 生存の話というのは、次のようなこと。以前は写真を撮ることができるスキルが絶対的境界として存在した、しかし現在は誰でも写真を「撮れる」(この自発的ニュアンスめいた言葉が適切だ)、しかも写真の世界で以前の基準なら何故と呼ばれるような写真が生存しおおせている、講演後の質問でも出たように、「キャラ」という言葉で写真家の作品の独自性を語る言説も多くある工場萌えというネットの画像ゆえにこそ可能な写真の空間も生じている、そんななかで写真を学ぶひとたちは何を持って生存できるのかを切迫して質問しにくるのだと言う。そういう問題は実は焦眉の問題。
 その答えはまだない。でも、僕自身は、写真の物質性が今どうなってしまっているのかということを冷静に写真的に考えることという答えしかないとは思う。質疑でもでていた「写真にする」っていうお店でプリントする際の語彙もここではあわせ考えなければならない。事態はとてもねじれている。

 神戸のうちの研究会でも、もっと難しい話を語ってもらうことことができそうな気はした。
 縮減模型のこと、上のような現在の写真の状況のこと、大辻さんのこと、そんな話題を次はうかがえればいいかもしれない。

 今回のもうひとつのキーワード「写真を転がす」も面白い言葉。英語だとRoll over Photography。写真を上下ターンオーヴァーさせる。写真という「物」がたまたまひっくり返って生じさせる別の磁場を考えること。そういう宿題をもらった。

 ま、他にもいろいろあるのでこれはまた。