巨大写真CM


■巨大写真CM
 最近、といってもここ数年のことだけれど、ホワイトキューブのなかの巨大写真パネルの間を縫うように歩く系のCMが多い。例えばしみとりのこれ
たしかアイスクリームでもあったし、北野武の何かのCMでもあったと思う。白い背景に巨大な被写体を捉えた像が居並んでいる。静謐で無菌的な環境の中でモニュメンタルに設置される写真的なもの。
…という巨大写真の問題についても明日は話がでるのだろう。
 しつこくもう一度宣伝。→視聴覚文化研究会/芸術学研究会
 工事真っ盛りの会場なので道案内必要なひとは言ってください。


■スクリーンの電気
 昨日の話のつづきで、スクリーンの問題も思い出す。今いくつかのスクリーン論を集めていて、スクリーン考が改めて必要だと考えている。そんなこたあ当たり前の基礎だろうと言われそうだが。しかしそれは、映画におけるスクリーンの諸説からははみだし(映画装置論やソブチャク、マノヴィッチ)、あるいは精神分析におけるスクリーン(と鏡)の話もはみだす、写真のプレゼン用スクリーンの話であり、電気的画面の話である。
 このあいだ写真家の方と話をしていて、スクリーンの機能と、静止画/動画の意味合いがすっかり変わってきていることをなんとなく話していた。講演会でのi-podのあの少しずつ膨らむ静止画送りも含めて、像を先に送ることがギミック以上のことがらを醸しだしているような感じは常々抱いていたからである。スクリーン的なものからはるか彼方に遠ざかるそうしたインターフェースがかつてのスクリーンを屈折したうえで志向している。
 来年前期はこの話をしてみたい。名づけて電気論2――スクリーン――、後期には電気論3――音――、と来年のシラバスを妄想する。
 鬼が笑うどころではなく鬼がヘッドバンギングする。


■写真にする
 もうひとつ昨日面白かったのは、サトウ氏がふと述べた最近の写真広告の物言い。
 お店プリントが次第に減少しつつあるなか、「写真にする」といううたい文句が宣伝にはつけられる。これもねじれにねじれたあげく、ひねりだされた言葉だろう。「写真」とは物質化された物になること、あるいは専門のラボで専門家にプリントしてもらうこと。でも、実はどこにも写真はない。写真という欠如したものを志向させ、その周囲を旋回することで写真的なものを欲望させる。こうした「写真」と、物写真やヴァナキュラー写真とが、とても複雑な補完関係にあること、そういうことは来年の前半に一本書くことになる。
 鬼がエアギターしているような計画である。