〜風写真にすること


■○○写真にすること
で、昨日挙げたミニチュア風写真の話。肝心のリンクをはるのを忘れていた。言っているサイトはこれ
 倒錯的というべきなのか、ここには何度かの転倒が潜んでいる。
 それが面白い、とひとまず言うことができる。

 見通しのよいそれほど高くはない地点から周囲に広がった光景を捉える。しかも、光景との距離は、画面中央に位置する人や建物や乗り物が、ちょうど数階建ての建物の屋上から見たかのように、手につかめるほどの大きさに抑えられる。その中央の事物のみが鮮明であり、その周囲のみが不鮮明になるようにする。一般的に見慣れた写真にありがちな前景の鮮明さでもなく、あるいは前景から後景までのあらゆる鮮明さでもなく、その中途のみに鮮明さが配される。
 これだけの手続きでミニチュア的知覚が生じてしまう。説明によれば、その要因には被写界深度がかかわっているのだという。ジオラマの模型を撮影したときの知覚の慣習が、ここでは現実の写真に施され、それゆえにこうした写真は模型の写真に見えるのだ、と。そこに私たちはこの写真の不可思議なリアリティを感じるのだと。なるほど、それは分かりやすい。現実を模した模型のコードが、写真という現実の知覚を指し示す表象のなかで再び表象される。そしてこのように、現実を模型のように撮影すること、その対極には模型を現実のように撮影することがあるのだろう。
 だが、どこかまだ、言い足りない感じがする。
 よく考えれば、通常、写真はそもそも現実の光景を縮小してしまう。そしてこの縮小が違和感を引き起こしていた時代もあった。ペーター・ヴァイベルの巨大写真論によれば―先日の視聴覚文化研究会で鈴木くんが紹介していたが―、19世紀の写真において時間的な問題(静止)よりもむしろ、サイズの縮小の問題が写真と現実との参照関係の阻害要因となっていたという。巨大写真の試みがかつてあれほどまで行われた理由はここにある、と。

 そういう意味で、写真は縮減模型でもある。それは、不可避的に自動的に生じるプロセスである。なおかつ写真の縮減と芸術の縮減の差異は、部分より全体を定着してしまう過程がなかば自動的であるという点にある。またこの自動性ゆえに、写真論には、フルッサーが言うようにプログラムのなかの作用項としての撮影者という考え方、プログラムとその編集の力学のなかに新たなプログラミングを引き起こす偶発的な要因としての写真家という考え方がとくに必要になる。縮減の結果捉えられてしまった手に負えない全体や気も狂わせんばかりの全体が写真につきまとうのは、そういうことだと考えている。

 ところが、この自動性が今、別の位相に行き着いているような気がしている。
 写真という記号が写真によって指し示され、その先送りや送り返しの半ば自動化した運動が際限なく続く、たぶんそれが写真を語ることの面白さでもあり、厄介さでもある。しかしその際に写真が現実に介入し、その力学を別の力学に置き移してしまう自動運動も写真の厄介で面白い部分である。しかし、その過程が生み出す帰結が、力学を欠いて小さなまとまりをもち、不可思議な驚きの距離で享受される。これは、昨年5月にある作家さんの写真を見たときにも感じた違和感だった。実にモダニズム的な手つき、しかしその折返され方、そしてその語られ方が、小さくまとめられ、近い遠さで受容される。あるいは先日の写真家の講演の質問で出たように「キャラクター」として消費される。

 倒錯的に感じるのは、たぶん現実と模型の転倒にあるのではない。あるいは、数多くの技術的な指摘の羅列にあるのでもない。問題はたぶん別のところにある。技術自体の詳細はそれはそうだろう。でもその微温的な感じがとても気になってしかたがない。

 と、思って写真集を注文。