業務


■業務したりもする
 講義講読講読。いずれも今期最終。
 講義はようやく60年代まで終了。原爆表象でしめる。
60年代から70年代、ネヴァダ砂漠での人工的な街、そこでの核実験が生み出した静止の表象が案外、2日前に書いた『10秒間の未来』と酷似していること、あるいは津田さんがリトルボーイのキーホルダーの写真で表象の戦争を前景化していること、そういう話をする。これは「終わりに抗して」っていうタイトルでドイツ語で昔出してもらった文の内容。
 不在を補うフェティッシュ化した原爆表象に、不在そのものの表象=場をつきつけてひねること、それがこの手の議論には必要だと思ったりもする。それがネヴァダの表象かもしれない。
 もうひとつ面白いのはそこが西部劇表象の舞台だった荒地だったこと。そこでは放射能ゆえに寿命を縮めた俳優もいた。それはたぶん二回ひねってMR論につながる話。
…たぶん誰も分からんに違いない。

 ついでにテルミンも授業中にずっと置く。喋りつつ両手を動かしていると関心が二重化して案外面白い。

 こう書くとえたいのしれない授業ではある。


 英語講読はジェイの一章を終える。メッツの言説は、ジェイの説明によれば、際限なくひよって腰の定まらない優柔不断な代議士のようにも読めてしまう。それがメッツをどうにも好きになれない理由だったりもする。ただし写真とフェティッシュから請出せる映画と写真の比較は面白い。映画がフェティッシュになれない理由。それを穿つことは必要。

 ドイツ語講読はキットラーと反キットラーの話を読みつつ、トーレンなどの活動を回顧しながら終了。面白かったのは、ドイツにおけるメディア論の停滞の原因のひとつが批判理論にあったという指摘。時にハイデッガリアンのテクノスケプシスと並走してしまいながら、メディアを操作手段として一枚岩的に議論していたため、メディア論の導入がドイツでは80年代初頭にようやく生じることになる。しかもその導入の途端に、ルーマンの議論に対する防御戦、ポスト構造主義に対する防御戦、この二重の防衛的戦略にハーバーマスが即座に巻き込まれることになる。そんな話を読む。なるほど。もちろん、ポスト構造主義と批判理論をつなぐ仕事は、別の場所で行われていた(例えばポスター)ということも補って考えるべきなのだが。
 ハーバーマスデリダの対戦を新日と全日、プライドとK1で説明してみる。しかしアリ対猪木でもよいのだと転調して、若い人を悩ませて見たりもする。