ひきつづきアマチュア言説について調べる。

 下記のものもひとまず買う。匿名のアマチュア写真家の手による無数の写真の展覧会が最近では美術館で開催されるようになっているという事例のため。こうした図録の編集主体が構想しているアマチュア概念も拾っておく。

Other Pictures: Anonymous Photographs from the Thomas Walther Collection

Other Pictures: Anonymous Photographs from the Thomas Walther Collection

Snapshots: The Photography of Everyday Life 1888 to the Present

Snapshots: The Photography of Everyday Life 1888 to the Present

 さまざまな写真史解説を読んでいると、
 アマチュア写真家の典型的な語り方は次のようなものである。
 1888年コダック・カメラによって、それまで技術と知識に長けた少数の人々ではなく、技術も知識も厳格な美的信念とも無縁な無数の多くの人々が、撮影することができるようになった。そうした写真撮影者のことをアマチュア写真家と呼ぶ、と。だからアマチュア写真とは、ピンボケやフレーム間違いや二重写し当たり前の、多くは私的な親密な出来事を、ある種パターン化された形式によって画像化し、非営利的な目的のために撮られた写真である、と。(さらに言えば、そうした破格の偶発的な結果を、芸術的写真のひとつのレパートリーとしていたプロ写真家の系譜も辿られもする。これは、美的言説の中に折りこまれたアマチュア的なものだというわけだ)。
 技術とぴったり並走した形でアマチュア写真を描写する記述から、技術はさておきヴァナキュラー的次元へと視線を差し向ける解説まである。芸術的写真、商業的写真、報道的写真、それにアマチュア写真を加えて、写真文化という広範な枠組みで写真を考える、そんな試みもいくつか行われているようである。
 たしかに、一面では納得はする。
 さらに考える。