つづき


 (昨日のつづき)
 同じ事態を別の観点から言い直せば、
 アマチュア写真家とは、一方で写真産業のプログラム、写真装置のプログラムのなかで、撮影者=機能従事者として、ある一定の可能性のみを反復し、受容者としても同様に反復的な所作に終始するひとびとのことでもある。こうした理由から、それは個人よりも集合で語るほうが、議論に適しているのである。
 ただし、この、個人よりも集合として、あるいは一様に広がる浅く深い領野としてのアマチュア写真的なものは、写真の無意識を形成しており、限られた作家写真を語る語りのネガにもなりうる。さらには、その私的側面、親密な圏域への固着が、産業のプログラムを時として踏み越え、装置のプログラムもはみ出し、写真行為と写真の受容をかえって写真的に明瞭に見通させる基礎にもなりうる。

写真の哲学のために―テクノロジーとヴィジュアルカルチャー