写真論のネガ

電王が終了。
気になって時々見ていたのは、このシリーズにしては少々異様な設定と鉄道ものであること、記憶や私性の描出が現在的だったことにある。記憶しないことと記憶されないことが救済を導き出すという話。


(つづき)
 さらに、――端からそうした行為に照準を合わせたブルデュはさておき――、写真論の御三家、つまりベンヤミン、バルト、ソンタグの議論が、多くの部分をアマチュア写真に依拠していると言うこともできる。ベンヤミンの場合、複製芸術論では不十分にしか展開されていないが、以前ここでも紹介した自伝的なベルリン幼年時代において、バルトの場合はいわずと知れた『明るい部屋』において、ソンタグの場合は明らかに当時の美術作品化されていく写真に背を向け、その外部としての写真に目を向けている。そう考えると、アマチュア写真的なものをプロ/アマの階層のなかでのみ、そして、技術的な知識のみで語るという現状の言説がいかに写真の可能性を切りつめているのかということも明らかであろう。
 写真論のネガとしてのアマチュア写真論。