スナップ・アマチュア・コダックガール


■ニッケル
 一昨日あげたSnapshots: The Photography of Everyday Life 1888 to the Presentを入手する。ダグラス・R・ニッケルによる解説。同著者のいくつかの本もそろってきた。
Dreaming in Pictures: The Photography of Lewis Carroll Picturing Modernity: Highlights from the Photograpy Collection of the San Francisco Museum of Modern Art
これ以外にフリスやワトキンスについても写真集を編んでいる。

 で、その序文を読む。ルイエ&ルマニーよりも丁寧なまとめなことは確か。
 アマチュア写真家を飛躍的に増大させた80年代のボックスカメラの発売から、アマチュア写真家としての女性や子どもの表象の話、カメラクラブの形成、カメラ狂への非難、レンズ文化の新たな形成と話はつづく。
 さらには芸術写真のネガとしてのアマチュア写真の話が展開される。スタジオのステレオタイプ的な写真やコダック写真家〔kodaker〕とも距離を置くスティーグリッツ、エヴァンズによるフォークアートとしての写真、フランク、キャラハン、ゴーウィン、フリードランダー、エグルストン、ゴールディン、日常を異化させるヴァナキュラーな戦略、スナップショットの美学といういささか曖昧な見出しの流通、これがざっと概観される。
 しかしニッケルが主張するには、こうしたスナップショットの美学の言説は、少なからず問題的である。というのも、この概念は、スナップショットを形式的問題や被写体のタイプの問題に還元してしまい、その背後にある実に複雑な文化的実践を単純化してしまうからである。たしかに、社会学者、文化人類学者、技術史家がこうした機能と技術と形式、撮影主体や被写体、その社会的空間の相互の関連を議論してはいる。

 また、こうしたスナップショットが美術館に所蔵され討究される際には、別の一連の問題が生じてくる。
 第一に写真が元の技術的、社会的文脈を残しながらも、そこから距離を置き、不特定多数の観者の目に触れることで別の次元を喚起するということ。つまり、こうした親密で私的な領域で生み出された写真は、私たちに、とくにその写真がまったくの匿名になっている場合には、その元の文脈から時にはみだす意味を充填するように強く促すのである。写真と観者との間の情動的な関係といえばよいのか、これがスナップ写真の奇妙な点である。
 第二に、美術館での展示が容易に美術作品化の文脈を写真に覆いかぶせてしまうという問題がある。ただし、他方でスナップ写真は、そうした規範化をつねに覆してしまうような対象や実践であり続けている。
 第三に、スナップ写真が私たちに及ぼす独特な作用力がある。匿名の誰かの写真を見る際、観者は別の写真、つまり自分がかつて目にした写真を想起し、その写真を見た際に喚起された感情に満たされる。
 それと同時に、観者はその写真の物語的な非決定性ゆえにいくつもの問いや思弁、感情を誘発される。たとえどんなになじみの写真であれ、スナップ写真は私たちを私たち自身から遊離させ、揺動させてしまう。なぞめいたものとなじみのもの、断片的でありながら私たちの経験を強く揺さぶるもの、この揺動がスナップ写真の魅力でもある――いうまでもなく、この側面を写真論の軸にしたのがバルトであるのは間違いない――。
 よくまとまったスナップ写真論。

コダック・ガール
コダックガールのサイトも調べる。
それはここ
1880年代に発売されたコダックのボックスカメラが宣伝のために採用した女性表象。
ついでにこれも注文。間に合わないのは分かっている。

Camera Fiends & Kodak Girls: Fifty Selections by and About Women in Photography, 1840-1930

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