ヴィデオの文化的論理?
20分授業のために神戸。ジョジョ論ショートヴァージョンで終了。
■スクリーン/ヴィデオ論
スクリーン誌掲載のウィル・ストロウ「増殖するスクリーン」を読む。
これは長くなるので翌日の欄に。
■ヴィデオ論
『Illuminatig Video』(1991)という論集も届く。
ここに収められていたMaureen Turim「ヴィデオの文化的論理」をざっと読む。タイトルで分かるようにジェイムソン「後期資本主義の…」をあてこすったもの。
彼女の主張は、ジェイムソンの実は反映論的で年代区分的で症候診断のごとく距離を置いたスタンスは、現在のヴィデオアートを見るうえでは有効ではない、というもの。同時に多くのポストモダニズム的言説も批判され、ヴィデオ的実践はモダニズム的な力をもつのだとも主張される。もちろんクラウスのヴィデオアートと鏡像段階を結びつけた有名な論も槍玉にあがる。
ではヴィデオの文化的論理は、上記のナルシシズムやアンチテレビ的なものとは別に何があるのか。それが弱いといえば弱い論文。ジェイムソンがとりだしたいくつかの特性はシニシズムに陥らない仕方でヴィデオアートのモダニズム的試みにあてはまるのだ、それが時間の空間化とモンタージュをしているのだ、、、その例がティエリー・クンツェル『スチル』(1980)やウッディ・ヴァズルカ『アート・オブ・メモリー』だ、まあそんな論文。
唯一面白かったのは、スチルという名称がメディア間の折り重なりと歴史的な切断のための手法であり云々というところ。クンツェル作品はここにある。