スクリーンの溶解と非連続性


■スクリーン/ヴィデオ論
 ストロウの議論。
 一見すると、IMAXからQuickTimeにいたるまで増殖するスクリーンのなかで、映画は曖昧なものとなっているように思える。かつてレイモン・ベルールは、メディアの近未来は境界の消失や溶解であると述べた。すべてが相互に接続しあい、一元的なコードの流れに還元されるのだ、、、と。
 しかし今起きている事態はそれとは別の奇妙な現象である。それは現代のAVテクストの非連続性、相互の分離性、区別された商品としての複数の場所での流通という現象である。そうした非連続なテクストが、その元の起源から遊離して、際限のないシークエンスを形成している。
 たとえばTVのチャンネルでは、起源も由来もそこでは明示されないままこうしたテクストが反復される。あるいはニュースチャンネルではたえざるニュースの流れというよりは、雑誌の各コーナーのごとく単位が分離されてシークエンスを形成する。あるいは映画の例を挙げれば、スペクタクル性のための装備が大規模に動員されているにもかかわらず、映画スクリーンと他のスクリーンや窓との境界を崩すことはなく、ただ映画スクリーンを拡張しているように思える。
 ストロウはここでGisele Amantea《In Your Dreams》を取りあげる。
 スノードームが3列に棚に並べられている。そのひとつひとつには再生装置が仕込まれており、とりあげ逆さにして振ると、雪とともにかつての古典的映画が極小の画面でループ状につかのま映し出される。この薄暗く距離を置けば判別不可能な像は、飛行機のあの隣の席で煌々と光っている液晶画面のようでもある。
 現在のスクリーンの状況はこのようなものだ。なぜならそれは、そのAVテクストの非連続性や個別性を支える境界は消えないまま、各々がそうした境界のコードの典型的な特徴を伝える「視覚的身振り」になっているからである。
 そしてこの作品が示唆しているのは、――ヴァーチャルリアリティや非物質性という語でメディアを語るかつての議論があったとすればそれとは逆に――、触知可能な事物としてこうしたスクリーンが増殖しているということである。たとえばネット上の取引を例に挙げてみれば、そうした交換のうちでもっともスペクタクルなものは、Ebayでの極小の、収集家以外にはとるにたらない事物の際限のない取引である。スクリーンももしかするとこういう事物性を分け持っているのかもしれないのだ。こんな議論。

 昨日挙げた議論よりも面白い議論。ヴィデオについての指摘――ヴィデオは芸術にも影響を及ぼすプロセスとして期待されていたが、それよりもむしろヴィデオの広範な影響力は、テープとして、さまざまなソースのものをその区分を維持したまま物質的商品的形態として際限なく循環させる媒体だ――も拾っておこう。

 ちなみに《In Your Dreams》の展示写真はここにある