QT論

■クイック・タイム論
以前挙げた『流動的スクリーン、拡張されたシネマ』を読む。
3章は面白かったのでざっと粗訳してしまう。それがWasson「ネットワーク化されたスクリーン」という論文。昨日紹介した論文と同様、クイックタイムとIMAXという両極のあいだで増殖しつづけるスクリーンを議論した論。
 一方で映画はもはや「ソフトウェア」として従来のメディア特有の生産分配流通形態を超え、他のメディアのそれと混じりあい、それ自身の境界は曖昧になっている。イメージはいつでもどこにでもある。しかし、そうした俯瞰的で一元的な抽象化は、運動イメージと私たちが出会う物質的界面やそれを駆動している制度的な文脈を見えにくくしてしまう。
 ここで美的対象やテクストとしてではなく、対象としての映画に着目してみる。たとえば、16ミリフィルムは、映画館以外での映画の流通や消費や集積を促し、その美的対象としての性質にも変化を及ぼす。家庭の内外において映画館とは異なる光と空間のダイナミクスがここでは生じているのだという―アマチュア映画論として展開することもできそうである―。もちろん、大雑把にしか触れられていないが、テレビ画面での放映、VHS、DVDでの販売ということも、映画に影響を及ぼす物質化/非物質化の文脈である。
 残る部分は上記の、二つの極としてのスクリーンが論じられる。もちろん前半で啖呵をきったほどには、その物質性から社会的政治的文脈への議論が盛り上がる論ではない。しかし、具体的なサイズと形状と材質で特定な場所に姿を現すスクリーンが、それを見る観客とのある種現象学的な経験から議論されている箇所が面白い。

 クイック・タイムに関していえば、小さく粗く短くぎくしゃくしており、色は漂白され、平坦な印象をあたえ、浅い焦点しかもたず、背景の細部を失った像が特徴であること、個別のユーザーが背中を丸めて覗き込むものであること、ユーザーの用いる装置の諸条件等によって速度や鮮鋭さやリズムが左右される点、音や音楽への依存、ウェブの分配論理に従っていること、漠然とした未完成の、つねに他のイメージを示唆する集積として享受されること、こうした点が挙げられる。もちろんそこにはつねに、タイムバーや再生停止ボタン、ブラウザのアイコン、企業ブランドのマークが長方形の画面を取り囲んでいる。映画ならざる映画を示唆するだけの映画的なもの、これがこうしたウェブムービーである。
 またソブチャクのスチュアートを援用した黄昏色のクイック・タイム論への反論も行われている。以前も紹介したソブチャクの論はぎくしゃくしたぎこちないミニチュア的な像を古めかしくノスタルジックなものとして論じきってしまう。しかし彼女が忘れているのは、それは使用可能なプログラムのひとつでしかないということである。むしろ数々の用法のなかでも、クイックタイムが従来家庭内でのみの、芸術的、実験的な実践に限定されていた視覚形式が、技術とイデオロギーの論理に従属したり反発したりしながら広がっているのだ、と論者は述べている。
 たしかにまあその通りだろう。
 IMAXについては翌日に。