IMAX論

■IMAX論
 昨日のつづき。同じ論文の後半部。

 他方、IMAXも別の仕方でネットワーク化されている特別な上映システムとして確立されたこのスクリーンシステムは、映画と類似しているがそれとは異なる、つまりIMAXであることをスクリーンとその周囲の環境とその流通、その言説を含めて観客に誇示するシステムである。  
 ここでもイメージの特性分析が興味深い。
 鮮鋭さ、被写界深度、細部、明るい色、ゆっくりとしたパンやティルト、主題としてのエキゾチックで広大な自然、空間の探索や旅行、かつてのファントムライドものを想起させる構成、物語性の希薄さ、物語を中断させる細部の過剰な自然の描出、崇高への畏怖をかもし出させる作用、それに拮抗する安定した視点、後景と前景、内と外のあいだでの没入の運動、多数の、しかも国に関わりなく観客に提示されること、身体は前のめりではなくむしろのけぞる仕方でイメージを享受すること、こうした諸要素が列挙される。
 昨日の欄にも書いたように、スクリーンで上映されるイメージの物質性から、政治的社会的意味へと結びつける記述は、ごく一般的な話でしかない。しかし、いくつか面白い部分がある。
 それは、クイックタイムの映像を「暗示〔示唆〕の映画」と論者が名づけている点。もちろんそれは、映画の一部には限らないし、映画予告編に限定されるのでもないし、むしろひとまとまりの完結した映像がプレイされる場合も含めてのことである。映画にけっして収斂しないが映画のようなものを未完成のまま横滑りに示唆するイメージとスクリーン。一昨日のメディアアート作品のスノウドームのあの小さな、「身振り」としか呼べないような特性もこれとそれほど遠い存在ではないだろう。
 また、QTとIMAXを対比させるいくつかの議論を読んでいると、――ソブチャクのようなノスタルジーは差し引いたうえで――、両スクリーンが100年前のキネトスコープとシネマトグラフの対立を否応なしに想起させる。画像の様態や享受の方法がいくつか共通しているのはもちろん、それ以外にも、100年前の運動/静止のねじれたからみあいかたが螺旋を描いて浮上しているような気さえしてくる。ここに写真のスライドショーをさらにはめ込んでみる、、、こともできるかもしれない。
 もちろん文脈は異なる。それは了解したうえで、少し面白い問題かもしれない。

 ついでにIMAXものを注文する。サイズの力学を堪能してみることにした。
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