時間の上映

■ドーン論文
ドーンの「時間を上映すること」もついでなので粗く訳していく。

 ベンヤミンは「ボードレールのいくつかのモチーフについて」でこう書く。
「『パリの憂鬱』では時間が物化されるようになる〔触れることができるくらい明瞭なものになる〕。一分一分が雪のかけらのようにひとを覆っている」。
 時間はある種の重みをもつものとして、しかし切迫性をもったものとして、不安を喚起する不確実なものとして、偶発的なものとしてひとびとに感じとられた。それはジンメルが述べるように、線状的で不可逆的な時間の概念化、正確な時間への強迫観念である。こうした趨勢と、世紀転換期に登場した数々の表象技術とは無関係ではない。
 時間の特権的な表象装置としての映画、つぶさに見ればそこには何種類かの時間が存在している。(1)機械装置の時間、(2)物語世界の時間、(3)観客の受容の時間である。物語映画が整備されると、(1)と(3)はできうるかぎり一致するようになる。しかし両者の差異、そしていまではタイトになってしまった(2)の時間のあいだは、それほど安定した関係にあったわけではない。不安定さや矛盾、それゆえの潜勢力、そしてその結果生じる魅力と脅威、それをドーンは掘り下げてみようとする。

(つづく)