マトリックス考

マトリックス考(承前)
 後者は以前、『マイノリティ・リポート(MR)』考でも言及した論文。『マトリックス』を議論するためにMRを迂回した議論。MR論のみとして読めば、物足りない気がしていたが、他の『マトリックス』論の問題点を指摘した論考として参考になる。
 物語とスペクタクルという二項対立、それゆえのMR>マトリックスという評価が見落としている側面が掘り返される。ポストモダン映画を議論する際につねに参照されるこの対立は、実はあまりにも単純すぎるものである。ある批評はスペクタクルゆえにこの映画を断罪し、ある批評はそのスペクタクル性ゆえに賞賛する。物語性に重心を置いた批評もしかり。
 むしろマトリックスはメタテクストとして拡散し、物語的細部の隙間にあらかじめ無数の穴が穿たれた構造をなしている。しかし、そうした「解釈のための解釈」のために投げ出された素材にのってしまうわけにもいかない。その用意周到で穴だらけの構造を穿つ方法が見出されなければならない。
 ポストモダン的な反転や入れ子の構造、宙吊りや非決定性の構造、こうした要素が、その受容のコンテクストにいたるまで作用を及ぼす解釈的ゲームの作動因になっている。それがこの映画の目的なのか手段なのか、そしてそれをスペクタクル利用とみなすか、それともスペクタクル批判とみなすか、さらにはそうしたスペクタクル利用/批判への態度をこれに巻き込まれた解釈者がどのように位置づけるか、そうした際限なくつづけることのできる二項対立も含めて、「スペクタクル」批判をおこなうことは難しい。これが結論といえば結論。これもその先を読みたい議論。
 カッコつきの映画としてこの映画を議論した論はまだ少ない。
 そういう意味で素材になる論文。

以上書きかけのまま仕事で放置していたメモのしめ。