写真電話うた

神戸。会議4つ出て、抗体検査をし、業者と打ち合わせの一日。

■写真電話うた
 いまさら、、、だが資料として。
そばにいるね 青山テルマ feat.SoulJaここにいるよ feat.青山テルマ

 双方の歌詞が、ささやくような電話的声で交互につぶやかれる。でもそれだけではない。よく聞けば、歌詞のほぼすべてがおのおののモノローグにすぎず、相互に交わした言葉ではけっしてない。内語が相互につぶやかれ、それが際限なく反復される。歌詞に登場するアルバムも、かつての日々も、たぶん3日前の直近の現在であり、アルバムの写真はそのときのタイムスタンプのついたのみの写メールである。過去を語る時制はかぎりなく現在である。自家中毒になり相互にずれる自己同士。そこもここも遠くも近くも今もかつてもそういうループを描く自己回帰する歌。そういう意味では、写真うたとしてはただの悔恨型とも追憶型ともいえない奇妙な歌。そして電話うたとしてもこれは異常なうた。電話的写真的受容の次元を考えるうえで資料になるうた。
写真うた、電話うたについては去年ここに書いたものをご参照ください。

■デジタル写真論
ドラッケリーはいまひとつ。いつも思うが、なぜドラッケリーはかくも数多く文章を書き連ねているのだろうか。はなはだ疑問。

その代わり、これが少し使える論文だということが分かった。
ドン・スレイター「デジタル文化における家庭写真」
現在の写真のありかたと19世紀ヴィクトリア朝の映像受容とをつき合わせた論文。とはいえ、現在のデジタル写真に割かれたスペースはほとんどない。しかし、アルバム的実践が、記憶や過去の構築から外れた次元にあるという指摘は慧眼な指摘かもしれない。