ケータイ的リアル

ケータイ小説
 以前もあげたまま、積読状態だったこの本。ざっと読む。
 ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち
 先にあげた石原本に並び良書。
 だいぶ前にここでも書いて気になっていた浜崎あゆみ的な私と世界、極大極小の語りがもつ意味が腑に落ちてくる。ちょうどシングルコレクションも出たのでひとまず購入してしまう。
 

A COMPLETE ~ALL SINGLES~

A COMPLETE ~ALL SINGLES~

 また、現在を未来からの「回想的モノローグ」で語る手法も、電話うたを考えるうえで参考になるだろう。これはマンガとも共通点のある側面。『NANA』論とか『頭文字D』論にもつながる。
 そして「リアル」という語の不可思議な肌理もなんとなくよく分かる。「ノンフィクション」を謳い、そこには情緒の描写も風景の描写も欠落させ、ただもうトラウマが洪水のように押し寄せてくる、しかも実は不幸自慢のインフレスパイラルに陥った半ばファンタジーとも呼びうるような作品が、リアル系だということ。そしてそれが投稿雑誌の投稿コーナー的なコミュニケーション欄的構造を由来としていること。こんなことも簡潔に説明されている。
 さらに、ケータイ小説でしばしばクライマックスに置かれる恋人の死が、実は精神分析的次元においては妄想的殺人として理解できる、という論点もあげておこう。これは映画でもしばらく流行した、純愛もので死者がよみがえる映画にも、適用可能な議論かもしれない。
 最後にもうひとつ興味深いのは、児童文学評論家がこのリアル系の一側面として「ほんこわ」系ホラーをあげていたこと。ケータイ論は実は根深いところで心霊系とつながっているのかもしれない。
 という意味で他のケータイ本よりも読ませる面白く読めた本だった。

 と面白かった反面で、ほんの少しだけ不満を言えば、、、
 「ヤンキー」というキーワードによって上記の現象を見事に地図作成できることはよく分かった、しかし、「おたく」にたいしてヤンキーを立てれば、話は済むわけではなく、それもまたきわめて閉じられた構造を確認しただけでしかない。蔓延し拡散する現象を名指すカッコつきの「ヤンキー」も、ある種の消費のラベルにすぎない。…もちろん、その先を示すような話が、メディア間のずれに見出されようとしてしめくくられているのではあるが。

■アーカイヴ論
 セクラのアーカイヴ論の収められた本(Mining Photographs and Other Pictures)を読んでいる。ロバート・ウィルキーによるシェダン写真スタジオとデュスコ社の関係の記述をざっとまとめる。さらに、本書後半に収録されている「アーカイヴを読むこと」の続きに進む。実はこのアーカイヴ論、彼の論全体(「労働と資本の間にある写真」というタイトルの論稿)の序文にすぎないのであった。