のろいのフレーム性

■のろい24
再びシリーズをこなす。それにしてもアマゾンでのDVD説明のうち、「出演:心霊」には毎度ぎょっとしてしまう。

ほんとにあった!呪いのビデオ24 [DVD]

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 Part24に含まれているのは、『キャンプ』『新婚家庭』『少年野球』『ダビング』『洞窟』『深夜の路上』『シリーズ監視カメラ』『ギリシア留学』『続・ダビング』。秀作との評判を聞いていた『ダビング』は、発見したビデオに映る怪異とその怪異を映画『リング』を地で行くダビング張本人の精神状態の不安定さが怖いというものだった。この、出所不明のテープという道具立て、そしてプレテクストとしての映画というのが特徴。他、ビデオ内の写真映像が一部消失するというフレーム内フレーム様式も案外目新しく感じた。この一本の中では監視カメラものがよくできている。エレベーター霊の問題は、さまざまに分岐させることができそうな問題。

■セクーラ基礎文献と炭鉱写真論
まずハッキングの本を注文。前者はセクーラ「身体とアーカイヴ」関係の基礎文献(であり、後者は後に挙げる解離現象の参考書)。

偶然を飼いならす―統計学と第二次科学革命

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記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム

記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム

 セクーラの炭鉱写真論は、鉱山業の写真以前の図版史をたどるところから、つまり16世紀のゲオルク・アグリコラ『鉱山書』(1550)から始まる。産業資本主義の萌芽期である17世紀、鉱山業は経験的、実践的知のモデルになっていた(採掘や鍛造などを思い起こせばよい。これと帰納的過程や概念を鋳造する過程が類比的に考えられる)。ただし、その一世紀前、すでに鉱山業の合理化は始まっており、この変化をイメージと言語という表象によって体系的に提示する努力が繰り広げられていた。その一例がアグリコラの書である。
 直接的観察に基づく理論形成、その提示のためには、歴史的変化をともなう言語よりも、超歴史的であるとみなされたイメージのほうが適しているとされた。このイメージは、印刷術と遠近法という二つの発明に支えられ、実践的な科学を促すとされた。こうした視覚的経験主義を示しているのが『鉱山書』である。
 ただし、その図版には、ルネサンスとそれ以降の時代にまたがる両義性が刻印されている。つまり、イメージが実践的知識の文脈で使用されるにあたり、労働の分割という鉱山での実際の作業で起きていたプロセスが、分割への両義的な姿勢を示すテクストとともに、図版の折衷性に示されているのである。
 それはたとえば、労働者のコミュニケーションの様子を機械描写に挿入したり、遠近法的作図と風景画を混成させたり、道具の一覧図が正確な図面というよりは労働者からの視点から描出されたりする試みなどに見てとることができる。
 (こうした経験主義の17世紀の中継地であるベーコンは省略して、)次にセクーラがこの両義的な系譜にすえるのが、百科全書派の思考経路である。(つづく)
 
■ホラーと解離
現在のホラー/心霊映像を考えるうえで、必須文献にあがることの多いこの論考を読む。
斎藤環精神科医は多重人格の幽霊を見るか?」
現在はここに収録されている。
解離のポップ・スキル
 現在のホラーや心霊ビデオの特性、そしてその受容などの諸現象を、19世紀末の心霊的枠組みでは説明しきれないことが多い。ここにはある変容をさしはさむ必要がある。それが、フレーム性という枠組みである。…しかしその前に、19世紀末から20世紀末にかけての経緯を簡単にまとめておく必要がある。
 19世紀末の二つの表象形式、幽霊とヒステリーは、いくつかの類似した形式性を帯びている。実在性(実体性)と科学的証明と視覚メディアの必然的結びつき、潜伏をはさんでの回帰、性的な機能の排除、存在―非存在の二元論に依拠していること、こうした点を挙げることができる。
 ところが、現在に至るまでにヒステリーは、消滅している。これに対応して、幽霊も消滅してしまっているかもしれない。論者は、そのひとつの要因として視覚メディアの発達を仮説的に据えてみる。一世紀前には有効であった、視ることの二重性、つまり、対象における見えるものと見えないものの分裂、主体における見る主体と盲目の主体との分裂が、実は「視ることの真実」を支えていた。しかし、視覚メディアの展開はこうした視ることの地位をずらしてしまった。直接に視ることよりも間接的な映像のフレームを通してみることが視ることのリアリティを感受するには必要となる。いや、こういったほうがよい。直接性と間接性という区別はもはや無効になり、フレームが複数並置され、フレームごとにリアリティがそのつど生じている、これが「視覚の複数フレーム性」である。さらに言えばそこでは、フレームそのものが欲望されているのかもしれない。フレームの切り替わりにリアリティの根拠が求められており、その切り替えの瞬間にこそフレーム自体が明瞭になるからである。

 幽霊とヒステリーという先の二つの表象が衰弱したのは、こうした変容の効果ではないのか。
 ただし、ヒステリーが消滅した後に生じた多重人格ブーム、自己同一性のフレームの複数性とそのめまぐるしい切り替えへの欲望の高まりを念頭におけば、衰弱し消滅したといわれる幽霊が現在どのようなものへと移行しているか推測することができる。おそらく、幽霊の消滅以後に起きたのは、フレームの切り替えによる心霊映像作品の流行である。Jホラーの古典といわれる、フレーム切り替えの技巧を凝らした『女優霊』や『リング』の怖さもここにある。
 この論を参照すれば、のろいのビデオにそうした工夫が随所に散りばめられている理由もよく分かる。その構造をフレーム性から考えれば、心霊映像が怖いのはその向う側の見えないのろいやたたりの怖さではなく、複数の表層上に並置された欲望のフレームの瞬時の切り替わりや乗り越えにあるということになる。