写真展とのろいパート26


今日も大学。

■写真展2つ
以前ここでも紹介した写真展二つ。

鈴木崇「arca」
 サードギャラリーに鈴木氏の写真を見にいく。光を透過させる半透明の物体が壁面に結ぶ影を撮影したピントのあっているはずの像、それが木製のフレームないしは浅い箱に入れられ、浮き上がったようにして立ち上げられ、ガラスで覆われる。焦点のあっているはずの影が不確かに白い背景から浮き出すが、こちらに焦点を結ばせないままにとどまり、その明瞭な不明瞭さと、逆にガラスに映るこちらの姿の明瞭さとの差異が、相互に拮抗するような効果を生み出す。
 ちなみに個展のタイトル「arca」は箱を意味しているそうだ。別にそれは死者を入れる棺でもカメラオブスクラでもよいような箱を意味している。棺に入った不穏な影としての写真。
 今月の27日まで開催

笹岡啓子展 park city
広島の表象については以前、津田さんの作品について書かせてもらったことがある(ここ。ただしドイツ語)。その時は、日本とアメリカの原爆写真表象の正反対の在ー不在の力学に関心がなんとなく向いていたのだが、この一連の写真を視て、顕著で象徴的な表象の裏にある、実は不在の散漫な原爆的表象に対して十分に言葉を尽くしていなかったことに思い至る。原爆と写真はどういうわけか独特な求心的な写真の力学に取り込まれてしまう。その力学をそらして、別の写真の力学をつむぐには、しかも写真でそれをつむぐにはどうしたらよいのか、そういう問題を考えさせる写真だった。ちなみに、先日出た『写真空間』2号の倉石氏論文に原爆写真の諸相について、本作品についても明快な論が載っています。
…個人的には、広島の隣の隣の市に住み、日常『はだしのゲン』が何気なく手元にあり、週末には広島に出かけ、遠足では原爆資料館へ行く、時折米軍基地のバザーに連れて行かれる、という今考えればよくわけのわからない小学生時代を送っていた時分、あの公園は本当に何もない散漫な場所にしか思えなかった記憶がある。

■のろいのビデオ26
 ほんとにあった!呪いのビデオ26 [DVD]
 さて、のろいの強さでは評判の高いパート26へ。こうなると根性だめしのようでもある。

 このシリーズ、全体としてシリーズが進むにつれて、導入の巧みさ、前編後編への分割、インタヴュー時の字幕の使い方がとても洗練されてきていることも分かる。凝縮して怖さが刻まれている。

 パート26に収められていたのは、『バンコク観光』『セミナーキャンプ』『ゆかん』『廃屋の住人』『オークション』『合唱』『シーソー』『続・オークション』『シリーズ監視カメラ』。

 最もすばらしいのは、以前TVでも見た『セミナーキャンプ』。霊の二回の見切れ方と霊のみ白黒というあり方と凝固と霊らしい瞬間移動が独特。ちなみに他は、『オークション』はテクストの説明と冷凍庫という出現場所、そして撮影者が気づくというモード。『シーソー』と『ゆかん』はケータイ動画の問題と死に化粧という問題。『廃屋の住人』は撮影者がその場で死体に気づくモード(これはパート24の洞窟でもあった)。もちろん、これは倫理的に収録してはあかんだろう。『合唱』はいまひとつ。パート24での『ダビング』も本作の監視シリーズにも引っ張られている。パート24のダビング霊に憑かれてしまったビデオ制作委員会は、そのために事務所を移転するのであった。これは入れ子問題。

 昨日の、フレーム性の問題に絡めて言えば、先の霊に気づいて驚くモードは、驚く声や態度が怖さをあおるのではなく、ビデオでの霊の視認と肉眼での視認の差異をビデオで提示するところに怖さがあるということになる。確認メモ。


ついでに炭鉱写真論も、、、と思ったがそれは明日。毎日早くから大学なのであった。