ステレオと鏡


直前になってしまいましたが、、、
今日は、細馬さんのレクチャーがメディアショップであります。
お時間のある方々、ご参加ください。⇒終了しました。次回は10月10日です。

■レクチャー終了
 3回目のレクチャー。ステレオ写真を授業やレクチャーで見る際、「見えた」と言ってすぐさまステレオカードから目を離してしまうひとが多い。実はステレオ写真の面白さは、見えてくる前の差異のある像、見える最中の像の差異、見た後にも残ってしまう像の差異、それこそがステレオ視現象の醍醐味だというお話であった。染み、細部が症候として解消しない。それこそがステレオへの欲望でもある。
 …他にも顔の合成のお話はゴールトンや図像統計学とも結びつくし、単眼での立体のおはモネの作品のレイヤーの重なり方にもつながるし、ステレオ《なわとび》のちらつきは現在の動画的なものにもつながる話であった。写真二枚の間の奇妙な隔たり、それと平行した写真一枚における奇妙な亀裂、たぶんそれが19世紀写真の前提になっていたある地盤であり、それがしばしば多くの議論では見逃されている。

 ついでに、、、その場でも喋ったように、かつてクラウスは19世紀写真のモダニズム的読解を批判している。作家としての写真家として仕立て上げられた初期の写真撮影者たちは、実は、偶々、何かのついでに写真を生業としているのみのことである。またその写真家の全生涯の全作品を一貫してみる見方も、モダニズム的観点から行われたものにすぎない。亀裂や逸脱が幾層にも重なっているような写真(家)、それが写真家を考える場合には面白い。

 ところで、何の変哲もない平たい二枚のわずかに差をもった紙を見せて、それがヴュアーと言葉とともに、やおら起きてくるという過程は、たぶん70年代の心霊写真と似ている。また、マイブリッジ的などうにも重なりあわない似た写真にとどまる一連のステレオ写真の不気味さは、心霊動画の歩みにも重なってくる。
 そういう意味で、バトンをいただいた回でもあった。

ご参加くださった方、ありがとうございました。


■鏡、投影、女性、映像
Female Trouble: Die Kamera als Spiegel und Bühne weiblicher Inszenierungen
ヨーロッパから戻ってきた同僚からミュンヘンのモデルネ・ピナコテークで開催の展覧会を教えてもらう。カタログは上。澤田知子さんの写真もあったそうな。映像における女性自身の投影像の歴史を過去から現在まで俯瞰したような内容か。

備忘録としてあげておけば、女性写真家を扱った本は、下記のものが思いつく。
Veronica's Revenge: Contemporary Perspectives on Photography (Lambert Art Collection) A History of Women PhotographersDefining Eye: Women Photographers of the 20th Century : Organized by the Saint Louis Art Museum