ホラーあれこれ


間違えて教室に入ってきた学生が戸口で引き返す際、その「見切れ方」のよしあしを考えてしまう。
いくつかの心霊ホラー作品での霊の戸口の見切れかたを考えているからである。

■積み残し 新耳袋
見れなかったこの作品集怪談新耳袋 第2夜 [VHS]を見る。清水崇「さとり」「待ち時間」はつながっているが、切断されたいやな感じの二編を形成している――そうした意味では『呪怨』を彷彿とさせる。ノートの不気味さも含めて。もちろんロングショットでの遠めのアウトフォーカスの少女がたたずんでいるだけのこわさもJホラー特有の表現。
吉田「第三診療室」はカンティッド&人間が怖いがここでも反復されていた。赤いフェードのようなゆれる画面もメモしておこう。「忘れ物」「電車」「恋人」は飛ばして、「一滴の血」は投げ出し方が面白く、「石つぶて」は怪物の遠くから近くへの突然の接近、「百物語の取材」は音声の変化に核があった。

■映画の恐怖の議論
実戦サブカルチャー講義
をホラー部分のみ読む。大和屋的なものから高橋洋的なもの、そして清水崇的なものの映画の恐怖の系譜をあとづけた貴重な議論。高橋洋の言う、幽霊が見えるべき位置は、通常人間がとりえない位置、視界の端、ピントからはずれる奥行、へんな光のなか、意味化から離れた時間の中である、という言葉、幽霊の非人間の歩きの方法(肩が上下しない、舞踏病的感覚を持たせる)なども、参考になるし、映画の恐怖の系譜におけるこわさとは、「歪み」と「時間的恐怖」と「整合性を欠いた断片の集積恐怖」であるという指摘である。失調し乱調する時空間、それが必要要件だということ。
 そして現代的恐怖の映画の要件を7つ挙げているところ――1 民話的円環性が変調により破られること、2 作品世界と日常の境界が曖昧であること、3 幽霊の出現行動原理が無根拠で非人間的なこと、4 キッチュはリアルとの境がなくなること、5 民話でなく都市型フォークロアの転位が作品の基盤になること、6 入れ子構造とそのフレーム重複をショートさせて恐怖を氾濫させること、7さらには「オウム」以後の恐怖(鏡面的な増殖のこわさ)も考慮にいれること――も重要。『Recreational Horror』が挙げていたポストモダンホラーの特徴に追加すべき項目が、6と7になる。この本はスプラッタ中心の本ではあるが。となると数日前に挙げた『Japanese Nightmare』がこの間をどうつないでいるかは関心がわく。
 『女優霊』についての記述部分は、以前も紹介した斎藤氏のフレームの重複のこわさがとりあげられており、ビデオ版『呪怨』の記述は、ビデオ版1のラストの話を除いた部分のみでもっとこわくなるはずという意見には同意する。
 最も面白いのは、屋根裏での伽耶子の這う動きの怖さが時間の変調にあると述べる部分。そしてその直後の切り返しの速度が主客の区別を痺れされて麻痺させる速さだという指摘も参考になる。
 ひとつだけ。方法の違いだと思うけれども、心霊写真的ものの見方が冒頭に議論されていたが(浅羽通明の本は未見)、ビデオ的論理はもっと際立たせてもよいと思う。『呪怨』のこわさは、映画のこわさというよりはビデオ的論理のこわさでもある。『女優霊』を論じたときにも思ったことだが、映画と写真、そしてビデオの境目に映像の怖さはあるような気もする。
 というわけで以前の情報紹介コメント、ひとまずこんなところで終了しておきます。

■のろいのビデオ5
金曜日のレクチャーまでにあと3本は見ておこうとこれを見る。

ほんとにあった!呪いのビデオ special 5 [DVD]

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 「寂れた公園」「サービスエリア 携帯カメラ」「監視カメラ 首のない少女」「路上監視カメラ ふたつの影」「監視カメラATM横たわる人影」「ケータイカメラ パトカーにはりつく影」、「ケータイカメラ 線路の二人の透ける影」これらは普通だった。また、パート3の「中古ビデオ」のノイズの顔が伝染性をもつという作り方(「2003090909」)、発見された8ミリに写りこむ謎の「人形」も、以後へと感染性を喚起させる作りをしていた。「井戸」は混入してきた自室の映像と女性の影という構成が案外新しい。そしてこの巻のベストは「疾走」。陸上選手なみに速い首なし霊とそれに驚く撮影者。
 こうして見ていると、入れ子式、ノイズなど、すべての映像に、構造的には一定のルールがあることが分かる。そしてデジカメの粗い粒子の透ける像はもはや2000年代の様式であることが分かる。

まだ原稿はゼロ。これはいつもの通り。