牢獄としてのスクリーン
■牢獄としてのスクリーン
スクリーン論の一部として、牢獄としてのスクリーンの素材を収集。マノヴィッチが挙げている2作品。前者は、VR空間でいかにも自由に動いている主体が現実空間ではマレイ撮影の鳥のように紐で固定されている主体になっていることの例として後者は建築家が建築図面の格子のなかに捕らえられる主体になるという一例として、挙げられている。これに未来世紀と時計仕掛けもべただが追加しておこう。
フォスターの『視覚論 (テオリア叢書)』教科書的言説ではあるが、遠近法の作図の格子が複式簿記と並行的であるという言葉、バージャーの絵画が金庫としてのスクリーンとも等価であるという言い回しも拾っておく。邦訳の出ていたフリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング―映画とポストモダン (松柏社叢書―言語科学の冒険)』も注文しておく。出版当初、少々深みもなく議論も無理やりと思えた論ではあるが、この期に切り取ってみる。ついでにボードリらの映画装置論、マッサーやボードウェルも行きがかり上、拾っていく。もちろんマノヴィッチの言うスクリーンを鏡としてのスクリーンに還元しない方法を考えつつ。
パノラマについても起源としての牢獄が確かこの本に挙げられていた。幽閉された独房がある種のカメラオブスクラになるという話。
■拷問器具としての写真装置
さらに拷問器具としての写真(撮影用器具)の言説も『Cyanide & Spirits: An Inside-Out View of Early Photography』から思い起こす。これは以前雑誌の連載で書けなかった部分。麻酔薬や歯科医とのアナロジーなど、いろんな話も拾っておく。