放送禁止と巨大映像


■放送禁止
劇場版『放送禁止』が京都でも上映。
たまたま深夜放映版を見て、90年前後からあるフェイクドキュメンタリーの現在が如実に示されている事例と思ったので、これも見にいくことにする。DVDはこれ。
放送禁止 DVD封印BOX
ちなみに京都のみなみ会館では『靖国』も上映。

■巨大映像論
 昨日の論文の続き。長々と紹介するほどの論文ではないがメモとして。
 ここで論者はIMAXとアーリのツーリズムの眼差しを交差させる。
 たしかにIMAXはいくつかのしかたでツーリズムの言説に根ざしている。(1)映画自体がツーリズム的アトラクションであること、つまり映画館とは違いある一定の遠隔地への旅行を含意すること、(2)旅行の一部として組み込まれているが、それ自体が目的地ではないこと、(3)旅の主題を提示すること、こうした要素がIMAXには確認できる。異質なものとの出会いを予期させ、その経験を構築し組織する映像、IMAXも確かにそうした映像である。

 しかし本論の議論は、IMAXのツーリズム的眼差しが真正な事象から隔たった擬似的イベントへの眼差しにすぎないと片付ける方向へむかわない。真正なものと真正でないものが対立するわけではなく、むしろツーリズムを組織する数々の制度機関の重なりのなかにおいて、IMAXの映像が、ある種のリアリティなり真正性なりを提供している。
 論者がポストツーリズム的眼差しというアーリの概念に依拠するのも、こうした理由に基づいている。ツーリズムやツーリズム的眼差しは文字通りの旅行ばかりでなく、他の文化的活動とも密接に結びつき区別が曖昧になり(脱差異化)、社会全体に拡散しつつある。
…とまあ、ポストツーリズム的眼差しを軸にIMAXという未来の映画鑑賞形態の可能性――もちろんそこにはツーリズム的な不均衡性や差異性は温存されている――を探るという議論。フリードバーグの議論と同じように、オチはそれほどない。 

 本論のオチを無理やりつければ、IMAXの資本や施設じたいがある種の「飛翔」や「旅立ち」をこうむりつつあるということ(つまりカナダ以外の会社に売却されつつ、国際市場においてカナダ的映画という同一性を繰り返し主張している)、その戦略のために都市の只中での商業施設における施設の設置が促され(日常での高額商品の購買という「飛翔」)、なおかつそこでの頻繁な上映作品が「旅立ち」の運動を顕著に示すライドものが多いという指摘である。
 オチてはいないがメモとして。
 にしても巨大映像にはあまり踏み込まない議論であった。