研究会終了

■視聴覚文化研究会&芸術学研究会

ここでも告知したように上記の研究会が開催される。

視聴覚文化研究会&芸術学研究会
・イメージのなかの身体―20世紀初頭フランスの身体表象についての考察
  増田展大(神戸大学大学院)

・「没入感」と「浮遊感」――《ディヴィナ・コメディア》(1991年)におけるヴァーチャリティとリアリティ
  岩城覚久(関西学院大学大学院)

・初期テレビジョンにおける「公開実験」研究―科学技術社会論/メディア論からの展望
  飯田 豊(福山大学人間文化学部 専任講師)

 たぶん研究会を開催している院生たちがブログ等で相互に議論をしあうとは思うのだが、、、まだなので感想を少しだけ。
 3つめの飯田氏の発表は、前半のメディアの考古学の部分と最後の実践研究の関与の方法の双方で、参考になる発表だった。テレビ研究はアメリカに限れば、どうしても議論を、公開実験以後の、家庭にTVが導入された時点から話を組み立てがちで、それ以前のメディアとしてのTVが複数の可能性をもっていた時期は掘り下げられないように思う。これを、現在のTV自体の変容や消滅の危機と重ねあわせて議論すること――メディア考古学を本来の意味で考古学的にすること――の意義がよくわかった。
 ひとつめの身体表象は、最後の3分の1の話、つまり美術解剖学と当時の身体の問題がまだこれからの課題だという感じだった。発表全体として、さまざまな学問分野から横断的に身体の周囲に張り巡らされた差異化する眼差しが拾い出されるスリリングな素材の布置が抜群に面白い発表である反面、――質問にも出たように――その先に来るべき立場が明確にならなければ、結論が、政治と芸術の間に曖昧に漂う身体表象がイデオロギー的役割を果たしたというその役割を反復しかねない危うさはある。
 ふたつめの発表は、91年というVRが浸透する時点でVRの別の可能性を提示したメディアアート作品をドゥルーズの議論の枠組みにのせて明快にその意義を取り出す発表だった。ドゥルーズの枠組み全体の構造を着地点にするという立ち位置は、必ずしも必要はないと思うが、VRの言説がつねに、行動と知覚の軸を中心に組み立てられがちであり、そこからこぼれ落ちる思い出などの側面が行動の系統によって抑えこまれている印象は確かだろう。ただし、想起される死にゆく思い出の内容が、ベルクソンドゥルーズほどには深くまでは達さず、虚空菩薩や三途の川など、文化的に刻印された表象であるというところがうがつべき箇所かとも思う。またこうした死出の旅の問題構成が当時の思想にも少なからず影響をこうむったものであることも――質問にも出たように――明らかだろう
 さらにいえば、発表で紹介された近未来的でその実懐かしいVR言説やVRの流行が現在、日常で何気なく散漫に浸透しているゲームとコントローラーやマウスとモニタスクリーンの次元でどのように変容しているのかという視点は必要かとも思った。知覚行動に歪みがはいり、それが変な風に傾いで深い没入感が散漫になっている。。。とでもいえばよいのだろうか。

 いずれの発表も粒揃いで、ほぼすべて学生間の議論でもつ様子であり、個人的にはようやく学生の開催する研究会がそれらしくまとまった感じになった印象はある。
 次回の視聴覚文化研は12月20日。京大でシンポジウムをする予定。
 芸術学研究会も、3月までにもう一度開催する予定。