単数形の顔、複数の顔


提出論文読みと研究用論文読み引き続き。

■ヴィデオゲーム論
そろそろゲーム論も考えなければと思い、ゲーム論集を探す。
The Video Game Theory ReaderThe Video Game Theory Reader 2Game Sound: An Introduction to the History, Theory, and Practice of Video Game Music and Sound Design (The MIT Press)
The Medium of the Video GameNarration in the Video GameGamer Theory
コメントで紹介された本をまず注文してみる。

■単数形「顔」タイトル
 マティアス・ユッカー「ワイマール共和国の顔」を読む。
 1920年代半ば、ドイツではある種のヴィジュアルターンが生じていた。読むことよりも見ること、そのメディアとしての写真の可能性が称賛されていた。写真はドキュメンタリー的メディアであると見なされており、依然としてその理論的考察はまだ生じていなかった。1920年代末までこの事情は変わらない。ニューヴィジョンの各美的関心に貫かれた考察も広範な議論の対象にはなっていなかった。
 このような写真のインフレ、そして写真の問題的使用が顕著になるにつれて先の称賛には、批判的分析が挟み込まれることになる。1931年のブレヒトの写真への留保がその一例である。もちろん1927年に早くも写真を批判したクラカウアーとも呼応する見解である(写真イメージの並置に対する言語による批判の必要性)。
 ところがすでに20年代末には大型の写真集が次々と出版されるブームが生じる。独立したイメージではなく一連のイメージをシリーズで見るような体裁をとった出版物の増大である。このような写真集のなかには、美的関心に貫かれたもの以外、さまざまな関心目的を有したものが多数あった。つまり、それは写真を同時代の現実を新たな仕方で洞察すると謳う、見ることを謳う写真集のことである。
 ここで重要なのは観相学の原理が暗黙の前提にされ、単数形の顔がしばしば写真集のタイトルに使用されたことだ。単数形の顔という語の頻出は、それ以前の個々の顔を見る観相学から、複数の顔を積み上げ、そのなかに潜在している普遍的な顔を見て取ろうとする原理の浮上を暗に示している。
 こうした「顔」タイトルつき写真集のなかには、見ることのみで言語が不要の場合もある。しかし、大部分はテクストによる注釈や、写真のタイトルなどが必要となっていた。ザンダー『時代の顔』ですら現在、当時の観相学的な合意や前提は不明瞭になり、そのため研究はしばしば孤立したイメージを扱ったり、全体を芸術作品として論じてしまっている。
 だからザンダーのような個別の写真家が撮影した写真を編むわけではない別の種類の写真集の場合にはさらに厄介な問題が生じる。既存の写真から選択を行い、写真の芸術性よりもその中立透明性に重点を置き、テクストによってイメージをゆがめ、少なからずプロパガンダ的である写真集、これが1930年代初頭の数々の写真集であった。

…この後、ユンガー関連の写真集とトゥホルスキーの写真集、ハートフィールドの試みなどが例に出され議論は続く。
 月並みで大多数を占める写真集の問題を指摘した論としては面白かった。もちろん議論はかなりシンプルではある。

 以前ちらりと触れたユンガー写真論は次のようなものである。。。と書いたが雑用のため今日も持ち越し。

■20−30年観相学関連
以下二冊30年前後の観相学文献として捜索中。
Gesichter der Weimarer Republik

Gesichten der Physiognomik,Text-Bild-Wissen
30年前後の顔の記号化、個人の顔の匿名化、象徴化、顔の凝集、溶解の言説を調べていく予定。