循環、火花

Bilder der Ueberwachung
が到着。章立ては教科書みたいだが使いではよさそうな感じがする。

■初期写真、現代写真
 昨日のザンダー写真論を調べていてよくわかったのは、一般に写真史で説明されるワイマール写真文化の対立(ニューヴィジョンと新即物主義写真)は、たしかに一面では歴史的整理に重宝なのだが、両者がその基礎に共通した不安定で強迫的なリズムを共有しているということ、このことがあまり照明されていないということである。30年代のナチをめぐるプロパガンダとしての写真や広告写真の話は数多いのに比して、20年代末までに醸成されていたこの微妙なリズムはなかなか見えてこない。そして、この不穏なリズムを回避するかのように、この時期、写真は、シリーズやシークエンスとして組織されていく。しかしその写真の組織原理となる奇妙な循環性や反復性が、そうした物語を裏切っていく、、、そんな筋が読めてくる。

 類型、形態(Gestalt)、退廃という言葉を結節点にした構造が、しばしばそうした写真を組織するための物語の基本構造になっており、そこでは、現実や真理がいくつかの類型的形態を経て構成される有機的な物語によって表象されていたようである。誕生、成長、衰退、退廃という循環的な円環が繰り返されること、その基礎に自然が置かれ、繰り返しそれが起源と出発点とされること、こうしたことはザンダーの写真実践においてもっとも明瞭に確認できる――もちろん昨日の論の結論は、写真の反復的不気味さがこのような循環を断ち切り、別の戦略的布置の可能性を提起しているのではないか、という議論ではあったが――。そして観相学的な語彙や比喩もこの問題構成のひとつをなしている。

 たぶん1920年代末ににわかに起きた写真史熱も、この流れと無関係ではない。一方で写真の起源が言祝がれるとともに、30年前後における写真による新たな生成や誕生が宣言され、他方で世紀転換期にいたる写真の衰退や退廃に遺憾の意を表明するという構成、それはほとんど上の同時代の社会や世界の写真を通じての語り方と同じリズムを刻んでいる。

 しかもそこでは顔がひとつの焦点となっていた。初期写真のなかでも肖像写真、その顔が照準される。ところが、しばしば写真言説でつむがれた問題――個人の顔の消失や匿名化、大衆における複数の顔の集合的イコン化――は、顔の消失である。先の循環的な物語のなかで基盤となる有機的で自然的な顔の言説が、溶解し、消失した顔の群れのなかで主張される。

 19世紀の犯罪学や優生学にむすびついた写真の言説空間はたしかにこうした1920年代の経緯と無関係ではない。ただし、別の角度から議論する必要がある。

 そしてベンヤミンの『写真小史』はその指摘のすべてが当てはまるわけではないが、この、あまり表面として議論されない表面=顔の問題を中心にしていることも納得がいく。末尾で語られる初期写真と1930年の写真の間に飛び散る火花というのは、先の円環や循環を破砕する火花というわけである。

などなど思考断片メモ。

観相学の回帰
20年代末の顔言説の参照論文を探していたら、次のものも見つける。以前あげた二冊の観相学論集のなかの2本。
ヴォルフガング・ブリュックル「もはや肖像は存在しないのか? 1930年頃のドイツ肖像写真における観相学
ザビーネ・ハーケ「近代写真における観相学的なものの回帰」