時間、地滑り


■時間の地滑り映画
NEXT [DVD]
を見る。未来のことがすでに起きたこととして過去形で語る主人公の、実はまだ何も起きていない映画。クライマックスで未来に見る自分の見る未来の自分が幾重にも分裂し、忍者のように動き回るシーンには笑ってしまった。でも何も起きていない。

ついでに下記も注文してみる。時間が止まったかのようなという喩えを想像力で補うのではなく、文字通り映像にしてしまった映画のようだ。
フローズン・タイム [DVD]
また、ファンには悪いけれど、これを昨秋、飛行機のなかで見たときも、そのスローモーション表現に絶句してしまった覚えがある。物が低速で見え、弾丸がくいと曲がる。ブレと鮮鋭さの対立はない。巻き戻しで終わる。そういう映画。
ウォンテッド リミテッド・バージョン [DVD]

■写真装置としての写真小史
 ラグとキャダヴァを読み直す。まずはラグから(Picturing Ourselves: Photography and Autobiography)。
 ラグについてはすでにここにも他でも書いたが、ベンヤミンの自伝をその言語、イメージなどの構造の基礎的作業を明らかにしたテクストとして読み直すものである。たしかに、『ベルリン年代記』『ベルリン幼年時代』は、『パサージュ論』の縮図か予行演習のようなものであるし、その一部分は写真小史と共通し、歴史哲学テーゼとも呼応している。奇妙な自伝であり、宣言やテーゼ的な文章ではないものの、そうした彼の思考の反復構造を読む際の青写真になる。

 すでに書いたことと重複するが、ラグの論から汲みだせる部分をもう一度いくつかあげつらってみる。
 第一に、削除された部分を含め、冒頭のカイザーパノラマ、末尾のフリップブックに挟まれた、いくつかの断章のイメージが、カイザーパノラマやフリップブックのように断片的に次々と提示される。イメージ間のギャップが、その間のつながりの不在、物語的な連続性やイリュージョン性の不在を明らかにし、それと同時に断片の集積自体がふたたび繰り返しとぎれとぎれにめくられ提示されるあり方が構造化されている。これがイメージ装置としての『年代記』『幼年時代』の写真的な側面のひとつである。
 第二に、その断章のほとんどが、未来完了形の時制で語られ、いわばこれは各々が文字テクストで書かれた写真的イメージであると読むこともできる。
 第三に、歴史哲学テーゼとの共通点として、心的装置を写真乾板にたとえる断章もここにはある。すでに露光済みの乾板が突然の閃光や火花によって現像される様子は、歴史的認識の瞬間とほぼ同じ記述である。
 第四に、名前や観相学的特徴の抹消も、またこれに呼応して、自身の像と他者の像が相互に照らしあいながらその鏡像が破砕されて空間化される点も強調すべきだろう。
 さらに、ベンヤミンの閃光や火花の比喩は、前期のバロック論で構造化されたように、アレゴリー的な特性を帯びている。

 自伝的な数々の研究では、こうした論点があくまでも自伝に限定された問題として片付けられがちであり、なかなかラグのような研究がない。