ドキュメンタリー、巨大写真


…レポート採点期日が予想外に早かったのに気づく。学部ごとに進級判定が違うとのこと。
そもそもこの時期に科研報告会って、、、いや、それは言うまい。


■ドキュメンタリー、巨大写真
ひきつづき。ブクローVSセクーラの対話から。ドキュメンタリーの失効について、巨大写真の全盛についてざっとやり取りがなされる。

「ブクロー:…〔中略〕…〔※ドキュメンタリー実践の困難さという〕歴史的葛藤があなたの作品の中心にあります。私が言いたいのは、あなたやFred Londierやマーサ・ロスラーが、ドキュメンタリー的実践が30年代のほかの政治的実践同様に、忘れられ、信用を与えられなくなった後に、それについて反省をふたたび始めているということなのです。しかし、あなたによるドキュメンタリーの蘇生は、素朴にそれを再利用する試みではなく、廃墟と化した〔ruined〕構造においてそれに目を向けようとする試みなのではないでしょうか。

セクーラ:70年代までには、社会的ドキュメンタリーは芸術写真という保守的な制度にとっても、コンセプチュアル・アートなどにおいて含意されている「素朴な」写真的リアリズムやヒューマニズムへの批判(Douglas Hueblerがその例)にとっても、「だめなもの」になっていました。それだけにいっそう、社会的ドキュメンタリーの伝統、芸術写真、コンセプチュアルアートにおけるドキュメントなどからは逸れていくようなドキュメンタリーの「再発明」を引き受けるという問題が重要なものになったのです。
 ただし、もう一度いえば、写真の世界のほうが映画の世界よりも「荒廃していた〔ruined〕」のです。映画の世界では興味深く挑発的な事例を次々と見出すことができます。…〔中略〕…。

ブクロー:あなたがこうしたタイプの作品制作をしつづけているのが、まさに、ポスト・コンセプチュアル・アートの写真実践が単一のイメージの美学に回帰している時であると認識することはいっそう重要です。そうした美学はアートワールドにおける成功の条件であるように思えるのです。しだいに強度を増した、巨大なカラー写真イメージが絵画化され、実際それが絵画の場所を占めてしまうほどです。コンセプチュアル・アートや(その結果としての)絵画の必然的な消滅がうみだした徹底的な空所が今や、拡大された写真、単一のカラーのプリントイメージ、単一のトランスペアレンシーのイメージによって満たされているのです。

セクーラ:そうです。周辺からの執拗な努力にもかかわらず、事態は悪化しています。まるで初期の芸術写真のピクトリアリズムが10年代後半から20年代初頭のモダニズムが成し遂げた断絶にもかかわらず、なんらかのしかたで回帰してきたかのようです。80年代までにはドキュメンタリーは多かれ少なかれ「退廃的」ジャンルとなっていました。現代の写真において通用している自意識とは次のようなクレタ人のパラドックスの、階層的なねじれをつけくわえた、際限のない繰り返しです。つまり、「すべての写真家は嘘つきである。私は写真を用いる芸術家である。それゆえ私は、自分が真理を語っていると考えているクレタ人写真家よりも賢い」というのです。

ブクロー:表象実践への理論的で、言語学自己批判をくみこんだアプローチを維持し、日常生活の領野にそうした実践を位置づける努力、そうした緊張があなたの作品の中心にあるように思います。」

このやりとりに続いて、ブクローは次のように言う。
『Fish Story』に始まるセクーラの作品は、ルポルタージュと物語という伝統的なモデルに、以前よりも、もっと余地を与えているのではないか。セクーラのそれ以前の物語への批判や、写真表象への批判的理論と、最近の作品はどのような関係があるのかと。さらにこうも問う。

「ブクロー:おそらくもっとも重要と思われるのですが、そうした作品は、物語の諸形式をあなたとは異なるかたちで再導入しているここ20年来のほかの芸術実践とどのような差異があるのでしょうか。結局のところ、ポスト・コンセプチュアル・アート一般の重要な問いのひとつであるように思われるのは、写真表象が、実際に表象と物語への新たな欲望のための許可証を与えているのかいないのかという問題なのです。バーギンからウォールにいたる諸実践がここでは思い浮かびます。あなたの作品は、こうしたポスト・コンセプチュアル・アートの写真実践の一部でありながらも、彼らの実践とは明らかに異なっているのです。あなたはそうした歴史的スペクトルのなかに自らをどのように位置づけるのでしょうか?」

セクーラの答えは次のようなものである。

つづきは明日の欄で。