アーカイヴ、レポート

レポートを延々と読んでいくつか面白い素材もあった。
僕の彼女はサイボーグ [DVD] 20世紀少年―本格科学冒険漫画 (1) (ビッグコミックス)
前者は見もしなかったが、映画の壊れぐあいが面白いようだ。さっそく注文してみる。そういえば知り合いも批評していたはず。後者は教科書的に漫画分析ができることもあって答案例が多かった。ただし、なぜ自分の知らないノスタルジーの怪物化に自分が注目できるのかという問いはひとつもなかった。


■批評と作品
 セクーラは、一方でバーギンもウォールもセクーラ自身も、批評活動と作品制作を分けて考えてきたし、少なくとも西欧マルクス主義との対話という側面は共有している。しかし前二者の場合、その作品の読解可能性や承認の必要条件のひとつが、作品と自身のテクストとの境界線のあいだのたえざる中継となっている、と言う。どういうことか。
 この中継的関係は彼によれば、「自己参照的な思想史ないし美術史としての二次的なストーリーテリング」である。そしてこのストーリーテリングは、悪いことに、芸術家と批評家との労働の分割を問題化するよりもむしろ、強化してしまうという逆説的な効果を及ぼしてしまう。セクーラは言う。

「私にとって重要な問いとは、作品の意味の構造が芸術システムへと内向きに螺旋を描いていくのか、それとも世界へ向けて外向きに螺旋を描いていくのかということである」。

ウォールへの批判は執拗である。
ウォールの作品はとくに現在、コンセプチュアリズムのテクスト的残余にわずらわされることのないように見えるが、背後からテクストは作用している。また、ウォールは実は、暗黙のうちに自分自身の作品へ暗黙のうちにつうじる道を描くようなとくに偏向した歴史的議論を構成するのにも長けている。たとえば次のウォールの言葉が引かれる。
「コンセプチュアリズムの歴史的「失敗」の帯びる最終的テロスは、『大文字の絵画の概念』の「復活」なのである」。
 このようにセクーラは非難を続け、ウォールの《Dead Troops Talk》を「戦闘と苦痛とのフォトジャーナリズム的遭遇の究極のアレゴリー化」と評したソンタグまで槍玉に挙げる
 これに対して、スーザン・マイゼラスの《クルディスタン》が対照例として引かれる。徹底的な、作者の自己消去的、アーカイヴプロジェクトとしてのこの企図は、現在においてもはや位置価値を失ったフォトジャーナリズム的手法の徹底的な修正であるかのように見える。

 ブクローはこれに応えて、彼女が対照例として興味深いのは、彼女がたんなるフォトジャーナリストから、クルドのプロジェクトに関わるアーカイヴィストへと変容している点にあると言う。
 この発言を受け、セクーラは「フィッシュストーリー」に関して言えば、マイゼラスとは逆の軌道、つまりアーカイヴから非公式のフォトジャーナリズム的企図への運動をしているように見える、つまり、実はアーカイヴ的作品はあとに生じたものだが、それによって、制度への内在批判をおこなうある種のフォトジャーナリズム的なアプローチへと自分自身が移行したことを認めている。同時に重要なこととして彼が挙げるのは、長期間のプロジェクトの可能性である。つまり、「フィッシュストーリー」は、短期間の展示と出版の必要性から開放され、7,8年の期間を優に超えて拡がる、長期間の調査モデルに従ったプロジェクト構想から生じている、ということである。
 ブクローはモンタージュからファクトグラフィへの移行という歴史的モデルの移行期にも触れつつ次のようにまとめる。
「「長期観察」の原理によって、作品のシークエンス全体、そして工場内部における諸関係や家族やコミュニティにおける諸関係などの複雑な社会関係が、写真調査の主題になっている」
のである、と。
 セクーラはこうした移行について語りはじめる。オハイオ大で起こした騒動の後(1984)にロスへ戻り、その当時漠然と浮かんでいたさまざまなプロジェクトに彼はとりかかる。それは、近代性の「忘却された空間」としての海というものである。これは、芸術作品としても批評的/哲学的「エッセイ」としても機能するような二つの作業方法を、単一のプロジェクトへと結び合わせるという困難な課題でもあった。一方で、彼の長期間の調査研究の帰結は写真アーカイヴについての諸論文(「労働と資本のあいだにある写真」「身体とアーカイヴ」)に結実し、他方で、しだいに「グローバリゼーション」に関わるようになった広範なドキュメンタリー的プロジェクトが展開していく(1986年からの「カナディアンノート」)。
 この間、彼は、一方では美術史的な、膨大な海の表象のアーカイヴの源としての海の問題に(17世紀オランダ絵画からエイゼンシュテインポチョムキンまで)向かいあいつつ、他方では、1960−70年代にコンテナ貨物輸送の進展にともなって世界中の海港都市に生じた徹底的な空間的変容に向きあう。後者についてはこれまで誰も十全に探求してこなかった問題だとセクーラは言う。 

つづきは明日。