回顧、魚話


缶詰パラダイス
な一日だった。ま、蟹工船ほどではないが一日中の労働はつらい。

■回顧の悪循環
 各TV局が開局50周年などを迎え、そこここで記念日番組を放映している。
 違和感があるのは、いつもすでになつかしランキング番組を常日頃放映している各局があまりそれと変化もなくそれを記念した番組を特集しているという回顧の悪循環、メタメタ回顧が多いということ。いやスカンスが述べたように、TVがもはや回顧の無時間性の奈落に陥っているのだと考えてしまってもいい。でも、日テレなら深夜に『EXTV』を延々と流すとか、フジなら『夢で逢えたら』を、テレ朝なら『タモリ倶楽部』を延々と流すとか(総集編は放映していたが)、それなりの祝いかたもあると思う。個人的希望にすぎないが。

■魚話
 セクーラの写真+テクスト作品である『フィッシュストーリー』は東西冷戦終結後の流動化した先進資本主義のなかで、資本のダイナミクスのなかで等閑視されている労働とその海を中継とした移動のベクトルを描き出す、物質的でなおかつ想像的な地図製作である、という。このタイトルはもちろん辞書にあるように、次のようなものである。
「fish story:釣師の手柄話のように大げさな話、ほら話、眉唾物」
 釣人がかつての大物の寸法を多めに主張してしまう、あの話しかたのことである。
 セクーラについてのあるカタログで、ステージド・フォトグラフィ以降の写真における演劇性やフィクショナリティにこだわった論考があり、こうした部分も少し考えていかないとならない。
 ついでにフィッシュストーリーもの映画もあげておこう。最近読んだレポートでも論じられていた素材。
ビッグ・フィッシュ コレクターズ・エディション [DVD]

というわけで今日も作業はできず。

■ヒラキさん
 家に戻って写真評論家のヒラキさんが亡くなっていたことを知る。
 病気の話はひとづてに聞いていたが、大丈夫だと思っていた。あまりにも早い別れに驚く。もう少しきちんとした仕事を見せるまで待ってほしかった。それはこちらの怠惰の言い訳なのかもしれない。
 もちろん、ヒラキさんにはそれほど頻繁に会ったことはない。だが、自分が30代に写真研究を始めて間もなく、何度か濃密にお会いした。研究者駆け出しの向こう見ずで生意気な私の放言に、あの人懐こい目をさらに細めながら丁寧に答え、なおかつ写真のあれこれの情報を披瀝し笑いをとり、さらにこちらの放言を煽ってくれたひと。開かれたひと。
 人間力のあるひとが亡くなると辛い。
 ご冥福をお祈りします。