缶詰の詰め、海の時間

缶詰のるつぼ
今日も缶詰。磨り減る。
明日は科研報告会→

■セクーラ、ブクロー
明日の報告の準備をはじめる。

その前にブクローとの対談の残りもざっと紹介してしまう。
『フィッシュストーリー』の源を1980年代初頭のある海港での経験としてセクーラは語った後、そのテクストの異種混交性を要約している。ブクローはこれを受け、次のように語る。
「ブクロー:あなたのお話されたことは、まるであなたが、モンタージュのモデルに、ただし私たちがモンタージュの美学のなかで知っているものとはまったく異なるモンタージュのモデルにかかわっているかのように、聞こえます。80年代の、つねに拡大していくスペクタクル的展示や広告の戦略の体系的包含の傾向を帯びた、多くの作品のモンタージの審美化とは対照的に、あなたのテクスト/イメージの構築はむしろ、写真の制度的、アーカイヴ的限界を認識することに関わっているように思えます。それはあたかも展示価値の潜在的危険性から避難しているかのようです」。
「セクーラ:作品が観客に要請するのは、時間と努力だということを私は意識しています。それは広告イメージと結びつけられるようなある種の一瞥による読解(の時間)ではありません。事実、作品の主題と構造は、もっとスローな時間の概念に向けられています。それは、スイスの映画監督Alan Tannerが『海の時間』と記したものです。」

このような、彼の構築方法は、その作品がどこで展示されるかということにも関わっている。『フィッシュストーリー』が展示されたのは海港都市であり、展示された作品は事実、観客の生活世界に緩やかに影響作用を及ぼし、港湾労働者による運動にも結びつくことになったとセクーラは言う。短期間ではなく長期間の、相互に異質な部分が浸透しつつ編み合わせる作品の構築の過程にならんで、こうした作品展示のスローな時間についても言及がされる。

 ブクローの最後の問いは、労働の表象とセクーラの作品の関係についてである。ブクローが比較例に挙げるのは、ソヴィエトの社会的リアリズムにおける身体の扱いである。つまり、ソヴィエトの文脈のなかでは、労働の描写は、写真という手段のしだいに伝統的になっていくアプローチと結びつき、結局、絵画化をおこなう単一のイメージへと回帰している。労働の英雄化が、以前は身体の称賛に用いられていた絵画的伝統を動員することになっている。社会主義リアリズムは、物理的な労働過程のなかでの身体の苦役を覆い隠すために、身体を照明し、記念碑化している。
 セクーラはこう言う。たしかに、社会主義リアリズムにおいても自由主義的資本主義においても問題は隠蔽されている。ただし両者に共通するのは、
「労働のイメージを『肯定性』において示す点である。両者は必然的に労働の『偶然性』の概念を無視しているのです。つまり、労働はつねに労働の不在、否定性の労働、失業という悪夢によって、労働からの純然たる自由というユートピア的夢想によって、影を投げかけられているのである。…〔中略〕…だから私はつねに労働に、こうした「否定的」、弁証法的視座からアプローチしています。つまり非労働によって影を投げかけられた労働ということです。このことはまさに写真の起源に遡る問題であり、またそれはたんなる「指示対象物」としての労働の問題なのではないのです」。
 「写真の起源」云々という言葉は、写真の発明時に写真を非難するために用いた言葉が、まさに労働の不在だったということを意味している。つまり手仕事による絵画と対比させられた写真自体の機械性、自動性、それと労働との関係が発明時から問題になってきたということである。
 残る議論は、セクーラのヴィデオ作品『築地』についての質問と応答である。ヴィデオという媒体を用いるにいたった理由、漁業の産業化にともなう問題(前工業的でもあり、前農業的でもあった漁業が、産業化によって巨大な採掘業に変容したということ)、築地市場というグローバルに拡散した体系の網目、自然的産物とその破壊の原初的動作、労働のある種の比喩的な描出などが語られる。そもそも

『フィッシュストーリー』の展示についての情報は簡単なものだがここにある。また『アート・イン・アメリカ』での批評はここにある。