コンテナ、シークエンス


海底二万海里 (角川文庫クラシックス)白鯨 上 (岩波文庫)
海の想像的物質的地理学を考えるうえでセクーラが随所で挙げる本。
どちらも遠い昔に読んだきりなので注文する。

■報告終了
 昨日も大学。科研報告会が終わる。結局時間がおしすぎたので(というか皆制限時間をまもらなすぎである)セクーラの部分は雑誌に書くことにした。僕の言いたかったことは、大雑把にも言えたとは思う。今ポストモダン写真論をやる意味は、いくつかの段階をへたうえで考えないといけないということ。
 たとえば写真が芸術に切り込みをいれる際の楔になっていた刺激的な概念が、現在では堂々めぐりの芸術の肯定に用いられてしまっている、それをどう批判的に論じるかという視点がないと、遅れてきたポストモダンごっこになってしまう。そういうことを早口で話す。また、いくつか重要な指摘ももらう。

■コンテナ、シークエンス
 ついでに別のカタログでのインタヴューからも主だったポイントをあげておく(リスバーグによるインタヴュー)。ここに掲載のインタヴュー『Dismal Science: Photoworks 1972-1995』。
まずは『フィッシュストーリー』のコンセプト
「『フィッシュストーリー』の背景にある主題の動機は、時代錯誤という不当な評判を受けている現代の海の世界を調査することです。エリートたちのあいだで常識になっている、情報が重要な商品でありコンピューターが私たちの進歩の唯一のエンジンであるというこうした幻想に抗するにはどうしたらよいのでしょうか。海は忘却された空間かもしれません。しかしそれはとるにたらない空間でもないし、たんに資本主義の「中間物」であるだけではないのです。海の世界は後期近代にとって必要不可欠のものです。なぜなら、製造業の地球規模の体系を可能にしているのは、1950年代半ばのアメリカにおける技術革新、コンテナ貨物輸送だからです。コンテナ船とオイルタンカーは、〔※メルヴィル『白鯨』の〕エイハブ船長のPequod号の最後の陰鬱な具現化なのです。

 アメリカの詩人チャールズ・オルソンは早くも1947年にこう述べています。メルヴィルはすでに一世紀前に、悪辣な工場としての太平洋を見出していた、と。海の世界が私にとって興味を惹くのは、それが巨大なオートメーションの世界であるばかりではなく、大いなる孤独と、国内からの隔たりや隔絶を特徴とした、絶えざる労働の、隔絶した、匿名の、隠された労働の世界であるからです。こうした理由から、メルヴィルがそうしたように、海に社会的なものを見出すことは興味深いことなのです。

 また『フィッシュストーリー』は美術史的な研究でもあり、海の経済の表象の血統を、17世紀のオランダ絵画から、ミニマリズムポップアートに見出されるコンテナ貨物の――それとは気づかれていない――「客観的相関項」にいたるまであとづけています(ウォーホルの『ブリロ・ボックス』であれドナルド・ジャッドの亜鉛メッキの立方体のシリーズであれ)。両者の決定的な差異は、芸術的対象の演劇的不活性さに対するコンテナの可動性にあります。「コンテナの一貫輸送」について語る船員にとって、箱は乗り物よりも重要なものです。だから包みが自らの生命を帯びはじめます。つまりそれはある種の幽霊的な生気を帯びているのです。

 ここで私たちはマルクスが述べた商品フェティシズムの寓話に立ち戻ることができるでしょう。…〔中略〕…私が語っているのは、「遠く隔たった労働力の棺」としてのコンテナです。なぜなら輸送される商品を生産する労働はつねに別のどこかにあり、いっそう低い賃金への容赦ない要求によって決定された、流動的で、割り当てなおされるさまざまな場所に位置づけられているからです。こうした労働はもはや、何らかの想像的な地理学的跳躍をする以外には、触れることも近づくこともできません。

 …〔中略〕…現在における政治的緊急性をようすることとは、現代のエリートたちが、自分たちがより安価な労働を世界中で探していながらも、労働者のいない富の世界を思い描いている事実にあります。貨物コンテナは資本主義による否認のまさに象徴になっています。」
というように先日の紹介と同様に、労働への照準が語られる。コンテナとブリロ・ボックスを対比させた記述は本書のテクスト後半にある。

また作品のインスタレーションに関する発言も抜き出しておこう。
昨日の映画と写真の関係にかんしても、少しだけ彼の考えが呈示されている。もちろん、先日ドキュメンタリー写真とドキュメンタリー映画に関する発言箇所も参照してもらいたい。
(上記も下記も、見やすくするために、途中に改行を入れておきます。)

「作品における間隙はきわめて重要です。イメージの間の間隙、イメージとテクストのあいだの間隙のことです。これによって観者にある種の自由や責任を与えることができます。しかしあなたの質問〔※リスバーグによる、セクーラの作品のなかの互いに相容れない複数の声が衝突する様子、これが彼の作品における重要なプロセスであり、デモクラッティックな側面なのかという質問〕に答えるには、後期近代の諸芸術のシステムの内部での写真の位置をもう一度考えなければなりません。

 写真はつねに、文学、絵画、映画によって境界付けられた遊動的空間に位置づけられています。この間メディア的領域はモダニズム的な存在論的純粋性の状態に還元することはできません。…〔中略〕…絵画モデルという最も重要な引力が、あまりにも強力にひとつの方向へと市場を牽引し、諸力の間の均衡を崩しているとみなすことができます。私にとって、写真の持つ境界性や開放性や民主主義的可能性は、つねに、三つのタイプの空間の日常的な雑種性によって作業することを意味しています。つまりギャラリー、読書室、上映室の三つです。読書室は図書館の概念を喚起します。アメリカの文脈では、図書館は、ミュージアムエリーティズムには欠落している直接的な民主主義的連想を帯びています。今私たちが公共の図書館の萎縮と、それと同時的な、私的なミュージアムの肥大を目にしていること、ここには危険なイロニーが存在します。過剰な視覚性は、識字能力の欠落の補完物なのです。

 読むことと見ることのための、展示での複数の部屋や、出版作品のもつ政治的、美的含意とはどのようなものでしょうか? イメージをテクストに、テクストをイメージに還元したいという二重の誘惑にどのように抵抗できるのでしょうか? 三つの空間の交差において、私の第一の解決法は写真をシークエンスで組織するということでした。写真のシークエンスは、再分類の可能なグループへと写真を組織するための主要な制度的モデルに対するオルタナティヴです。つまり、アーカイヴやシリーズに関するキュレーションや官僚的なモデルへのオルタナティヴということです。もちろん実際にはシークエンスにはシリーズが含まれることもありますし、シークエンスはシリーズの諸要素を織り合わせることから組織することさえもできますが、その逆はありません。

 シリーズは、写真の行進に単調な規則性を導入し、個々のイメージが意味の複雑さを喪失することに関する何の疚しさも感じないまま、それを売買することを可能にします。これが実際、シリーズのあたえるひとつの快楽です。シークエンス的組織化、そしてそれと並行したテクストの諸要素の構築、これによって、写真作品が、より高度で複雑な形式的統一のレベルをそなえた小説や映画のように作用することを可能にします。しかし、シークエンス的アンサンブルの開放性は、映画との重大な差異をなしています。ここには、プロジェクタによる単線的な独裁は存在しません。だから、シークエンスをシリーズと取り違えることはたやすいことなのです。たとえば、ひとつのシークエンスが組織されるなら始まりと終わりには特別な印が必要です。

 そして諸要素の言語的、視覚的異種混交性は、小説との差異を示しています。シークエンスはまた小説とは異なる、さまざまな持続の間隙にしたがって時間を記録することを可能にします。たとえばそれは、静態的なメディアによって、海と資本のもつ流動性に関わる作品という不条理な挑戦を促してくれるのです。スチル写真は事柄をスローダウンさせ、そうしてネモ船長の「動きの中の動き〔mobilis in mobili〕」というスローガンに中断を与えるのです」。
「mobilis in mobil」に関しては、このページで詳しく論じられています

 昨日、同じアーカイヴ的な作業として、リヒターのアトラスとの関係を聞く質問もあったのだが、たぶんこうした呈示方法や、テクスト戦略込みで考えれば、それぞれの資本主義に対する姿勢も明瞭になると思う。

 長くなりすぎるのでつづきは明日の欄に掲載します。