投錨、係留


■電話と告白
神へのメッセージを伝える留守電が開設されたらしい。

■投錨、係留
「私の第二の解決法は、言葉とイメージとの距離の尊重、読む経験と見る経験のあいだの身体的な差異の尊重にあります。これは『トリプティックでの瞑想』(1973/78)に当てはまります。そこには読書用の机と椅子がイメージと距離を置いておかれ、読者/観者は読むことと見ることとの間の中継を強く意識することになります。

 こうした分離のもっとドラマティックで転倒した舞台設定がスライド・シークエンスの上映室のデザインに見出されます。照明された読書用の小空間――あなたがたの閉所恐怖症の程度により、電話ボックスにも懺悔室にも直立した棺にも似ることになる空間です――は、投影用スクリーンの脇にあります。その空間の位置は、スライド・シークエンスの観者が目の端で、20分間に投影される80枚そこそこの写真のキャプションを含む作品のテクスト的構成要素を包含する小冊子が見えるようになっていますが、実際には投影されたイメージを見逃すことなくそれを手に取ることはできません。読むことが投影の前か後になります。私が意図した経験は、映画の上映館に行き、その薄暗い光のなかでプログラムを手渡される経験に似ています。
 このように、作品は距離ばかりでなく、言葉とイメージのつながりについてのフラストレーションにも依存しており、同様に、――写真が時代遅れのものにしたと言われている――像による記憶という古くからの問題を提起しています。

 同時にまた、投影されるイメージは、つかの間の輝く像の現前とスケールを有しています。それは、適切な上映条件では、ライトボックスによるもっと静態的な商業的誇張にたいする控えめなオルタナティヴを提起しているのです。

 現代の視覚芸術におけるテクスト的作品の、フレーズやリストの優位性のひとつの理由とは、こうしたものが、見る手助けになる身体的姿勢や空間のなかで読みやすく、覚えやすいものだからです。もっと長く、複雑なテクストのためには、快適で控えめな椅子がよいアイディアになりますし、私はしばらくインスタレーションでそれを用いていました。理想的には、テクストが立っているあいだに読まれるなら、読者を、謎めいた、あるいは不条理でさえある命題の展開へと、おそらく展開とともに惹きつけるにちがいないでしょう。だからそれは、明瞭で、注意の散らない読みの手助けになるグラフィックな形式で呈示されねばならないのです。これは、読者/観者の快適さや知性を尊重するひとつの方法です。

 また、全般的に私の戦略は、シクロフスキーが述べたように、きわめて直接的な現象的レベルで読むことと見ることの間の関係を「異化する」ことを意図しています。バルトが写真についての初期著作で導入した言葉を用いれば、目標は、テクストのニュースキャプション的道具製による映像の非決定性の意味論的「投錨」ではなく、むしろ作品のより高度の複雑さの力へと高めるようなテクストとイメージの係留です。今私は、彼の用語の選択について考える際、こうした想像上の鎖の作用が、海と陸地とのあいだの関係に似たテクストとイメージとの関係なのではないか、あるいは、奴隷と主人のあいだの関係に似た両者の関係なのではないかと思っています」。
 この直後にリスバーグはセクーラのヘーゲル主義的思想の源のひとつ、マルクーゼについて質問を向ける。ただし、ここはあまり興味を惹かれないので(単純な議論、奴である写真こそが自由に向けて云々という発言)省略しておく。ジェンダーエスニシティなどのアイデンティティ・ポリティクスにしばしば議論が収斂しがちな文化研究からの写真の議論との彼の距離、つまり、階級、資本、労働につねに照準するのみという彼の流行の議論とのずれが、セクーラのかえって興味深い実践、理論に寄与していることはたしかである。

なお、発言の中のライトボックス云々は、当然ウォールに向けられた批判だと思う。スライドによるシークエンスの問題の発言も興味深い。