ドキュメンタリー、アーバス

■解体、再創出
ドキュメンタリーに対するセクーラの位置も、彼の議論から拾っておく。これは「モダニズムを解体し、ドキュメンタリーを創出しなおすこと」という『写真を逆撫ですること』所収の論から。

「ドキュメンタリーというジャンルの政治的批判が大いに必要とされている。…〔中略〕…美術としての写真をめぐるアートワールドの騒ぎを振り返ってみれば、このような問いかけ〔※〕のほとんど病理学的とでもいうべき回避が気づかれる。ドキュメンタリーが公に美術として認識されるときに奇妙な事柄が生じている。突如として、解釈的振り子がその弧の客観主義的な極からそれとは反対の主観主義的な極にふれたのである。実証主義が主観的な形而上学に、技術主義が作家主義に道を譲っている。突如として、観衆の注意が、芸術家が採った手法、感受性、身体的で感情的なリスクへと向けられるのである。ドキュメンタリーは、それが世界への指示を超越し、作品が第一に芸術家の側での自己表現の行為と見なされる際に、芸術と見なされる。ヤコブソンのカテゴリーを用いれば、現実指示的機能が表現的機能へと崩れていくのである。作者崇拝、作家主義がイメージを掌握し、イメージをその制作の社会的条件から分離して、写真が一般に使用される多数の低次の日常的な用法よりも高次のものに高められるのである」。


とくに例として挙げられるのは、ダイアン・アーバスである。もちろんそれは『ニュー・ドキュメンツ』展以降のドキュメンタリーのあり方全体への批判でもある。この論文の前半は、セクーラが敵対する写真の主潮流への批判がおもな内容であり、後半は彼がオルタナティヴなドキュメンタリーの試みとして挙げるいくつかの例の紹介である。前半はざっと訳してしまう。


■パノラマからディテイルへ

 「陰気な科学」の後半をざっと読む。つまり、19世紀末を境として海の空間を捉えるパラダイムがパノラマからディテイルへと推移したという話が豊富な例とともに語られる部分である。海軍史、プルーストエイゼンシュテインポチョムキン』、ザンダーの船乗りの写真、スティーグリッツ《三等客船》、ポパイ、ミッキーマウス、ポップ・アート、無数に海の表象の転換を捉えるための事例が挙げられる。
 スティーグリッツの写真を契機としたモダニズム写真の開始は海を基点としているし、ザンダーの演習用地図は船乗りをその奇妙な係留点としそうであるし、写真史のなかの海の問題は案外面白い。もちろんセクーラはこうしたテクストの前後に港湾都市の写真シークエンスを挿入し、資本と労働と海の不安定な関係を描き出そうとしているのではあるが。
 とはいえ、海表象論の19世紀末以降バージョンとして系統的に素材を蓄積していくことにした。