映像学会、エイクリー

今日から名古屋で映像学会。
■映像学会
 ドーンの講演を聞く。スチュアートやロバート・モリスからバラージュ、ドゥルーズへと話が広がっていき、やがて途中のレヴィナスが出た後あたりから、何となく大まかに映画へとまとまっていく話だった。クローズアップ、そして顔を契機にもっと映画以外の現在の映像の議論に開かれていくかと思っていたが、そうでもなかった。たとえば顔認証やゴルトン関連の話とか、優生学の話、もう少し聞きたかった。本人も述べていたが、自動化する顔認証の問題、その構造は映画映像における顔と関連づけることもできる。

 研究発表は、神戸以外は黒沢清論とメキシコの死児写真の話を聞く。黒沢論はよくまとまっていた。並置と交代が絡められ、それが折り返された挙句、並置でも交代でもなくただあることの分身性がひたすら分岐していくということ。…でも黒沢論はいつも黒沢のための議論になってしまうように聞こえてしまい、もうひとつその外部へ引きずり出してほしくなってしまう。とはいえよくまとまった発表だった。

 死児写真は、昨年よりも文脈の話が整っており、アメリカの死後写真との比較(生のとどめさせかたや、眼差しによる親密さの母子的表現がアメリカの事例にはあるが、メキシコのケースではそれがない)も、メキシコの死児写真のなかば人形や物体を扱うごとき死児のたたせ方(しかしそうしたイメージが天使という聖なるものへ向かっていくという)などなどを興味深く聞いた。ただ、質問でも出ていたように受容の問題はさらに掘り下げることもできるし、他の地域での似通った写真にも斜めにつなぐ準備もできると思った。祭壇なのかアルバムなのか未整理の箱なのかも議論に大きな違いが出てきそうだし、死児の写真と事物をどのように配していたかの詳細も聞いてみたい話である。


■エイクリー
エイクリー資料、ことごとく図書館に貸出を断られる。…全国唯一の所蔵図書館だから駄目というのは変。(ちなみに僕は『Zombie Culture: Autopsies of the Living Dead』を含め唯一のものも惜しげなく貸し出している)

Carl Akeley: Africa's Collector, Africa's Savior

Carl Akeley: Africa's Collector, Africa's Savior

購入。エイクリーのややこしさを掘り下げる。