臨界、イメージ論


 読書会が終わり、昨日は下記に紹介した若手研究発表会に行く。


 念写発表も、押井発表も、池田発表も素材は面白かったが、スミッソンの発表が抜群に楽しい発表だった。オーウェンスの議論の見落とした余白から、スミッソンのあの映画のラストへ向けて疾走していくスピード感がある。もちろん、オーウェンスからクラウスの写真論のラインから議論を分岐させれば、papapapapa…の差延につぐ差延を映画ばかりでなく写真にも見出すことはできるだろうし、逆に映画においてクラウスのこの議論を展開していくこともできるかもしれない。香具師めいた話の展開だったとはいえ、スミッソンを写真(映画)から読んでしまう読みのヒントをもらった。
 また、ポラロイドと念写という問題系も、同時代にポラを用いた作家作品の登場などと絡めてみると面白い。彼ら作家は、限りなく自動化され、唯一性と物質性を帯びた、作家の手など入り込む隙のない写真に作家の念を表出させるのだから。また、20世紀初頭の霊媒師のヒステリー的身体の再演という問題も見落とせないし、ユリ・ゲラー効果というTVも考慮に入れた心霊経路を考えることも必要だろう。そして池田発表とからめるならば、不可聴なものに並ぶ不可視のものの在り処を現在どのように議論すべきかという問題も付け加えておきたい。X線という不可視光線の議論が現在どうなっているのか。あるいは議論でも出ていた動体視力という不可解な概念は、とか話は斜めに広がっていきそう。

 立喰師の発表も手際のいい、まとまった発表だった。もちろん、フルッサー以前に戻るよりも、ポストテクノ画像において、物性を帯びた写真の諸階層がデジタル映像の枠組みのなかにはめ込まれていると読んだほうが議論に広がりは出るのではないだろうかと思った。紙芝居などと同じレベルにおいては、まんまとノスタルジーの反復構造に絡めとられてしまう。それを回避しながら、斜めに穿つ方法が必要かもしれない。 

アガンベン関連の発表は、司会のひともクリアに述べていたように、イメージと言語を前後し折り重なるメディアとして議論の中にもちこめば、もっと刺激的になるだろうし、クリントイーストウッドの発表は、まずは『硫黄島…』や『…星条旗』の掘るシーンから掘削してしまう筋立てのほうが整理ができたのかもしれないと思う。

ということで、簡単だけれども、さらに自分で展開したくなった素材メモ。