シンポ概要


■日本写真史シンポ
というわけでストの煽りもあって結構真面目に参加したシンポの感想。
全体のプログラムはこんな感じ。

12月4日(金)
14:00 挨拶/趣旨説明
14:15-16:30 セッション1「「写真というオブジェ」
司会Françoise DENOYELLE フランソアーズ・ドノアイェール (ルイ・ルミエール国立映画学校)
Claude ESTÈBE クロード・エステーブ 「日本的なものとしてのガラス写真」
Timothy CLARK ティモシー・クラーク「写真集とミュゼオグラフィー・大英博物館の事例をめぐって」
Xavier MARTEL グザビエ・マルテル 「パリ国際写真芸術サロンにおける日本の写真について(1926- 1939) ―ピクト・モダニズムをめぐって」
16:45-18:15 セッション2「経済制度の出現」
司会Laurence BERTRAND-DORLÉAC ロランス・ベルトラン=ドルレアック (パリ政治学院)
佐藤守弘 「風景とノスタルジア―20世紀初頭の日本における絵画主義写真」
Sandrine TABARD サンドリン・タバール 「1920年代の日本社会における写真の位置付け―写真発明百年祭をめぐって」
12月5日(土)
13:30-16:00 セッション3「批評的な視点」
司会André GUNTHERT アンドレ・グンテール (国立社会科学高等研究院)
金子隆一 「日本写真史における戦前の写真の位置」
五十殿利治 「板垣鷹穂による写真展月評―1930年代における写真雑誌と読者」
16:15-17:45 セッション4「写真とその周辺」
司会Fabrice MIDAL ファブリス・ミダール (思想家)
Michael LUCKEN ミカエル・リュケン 「批判的道具としての写真版―岸田劉生の模倣論」
Anne BAYARD-SAKAI アンヌ・バヤール=坂井 「フィクションの支えとしての写真―谷崎潤一郎の場合」
17:45 総括報告

たぶんリュケン氏とタバールさん、そしてたぶんグザビエくんの働きかけで実現したフランスでは稀なシンポ。大枠は、第二次大戦前の日本写真史、それを4本の柱――物としての写真、経済技術的メディアとしての写真、写真と批評言説、写真と他の芸術領域との相関――を立てて料理しようという枠組み。
 最初のセッションではエステーヴがガラス写真というアンブロタイプが欧米の金属写真(だげレオタイプ、ティンタイプ)とも紙写真とも異なる、奇妙な物質性を帯びた媒体であったことに話を収れんさせる発表。司会が急くので肝心の山となる部分は聞けずじまいだった。クラーク氏の発表は小気味よい発表。大英博物館の日本の展示での写真集展示について簡潔な発表をした。写真一点と写真集、物語的なもの、著作権とウェブの問題、こうした語り方へのそもそもの疑問など、論点は明解。マルテル氏の発表は、フランスにあるパリ国際写真芸術サロン(1926−39)の資料を紹介した発表。たしかにあれこれまざっていて読みときがいのある資料であることは確かだ。でももうちと理論的核もほしい。
 初日ふたつめのセッションは、佐藤氏とタバール氏。後者は二日目のパネリストの五十殿さんのところにいた留学生だそうだが、日本語は堪能、フランス語も明瞭(のようだ)。佐藤氏は絵画主義写真の前提になっている不気味な故郷感をいつものごとく論じ、タバールさんは写真発明百年祭の資料を披露し、日本の写真史言説の起こりを俎上にあげた。
 初日は前半の司会のかたがあまりにも大時代的すぎて違和感があったが、後半の議論がうまく前半の流れをくみとったといえばよいだろうか。
 二日目は、金子さんが事情があってこられなかったので五十殿さんの発表のあとでリュケン氏と佐藤氏、司会のギュンテール氏でディスカッション。発表事態は板垣鷹穂の、これまでの写真史言説ではひろいきれていなかった、アマチュア写真との接点、その後の、大きな変化を取り上げた興味深い発表。フォトモンタージュをこれほどまでに板垣が批判していたという事実は実は誰もそんなに論じていない。ディスカッションでは、ややずれがあった。というのも、ギュンテールさん他2人はどちらかというとアマチュア写真家と芸術写真家の連続性に強調点を置くが、五十殿さんは、写真を用いた美術家とアマチュア写真家との間、アマチュア画家とアマチュア写真家とのあいだに、それほどの連続性が保証できるのかに疑問を呈していたからである。たしかに、後者の主張にも肯ける部分は多い。もちろん佐藤君が活躍し、各議論の穴を補足していた。
 それにしても「めちゃくちゃ、めちゃくちゃ、○○でして」という関西弁が、綺麗なフランス語のボークーになっていたのには笑った。
 最後のセッションは、前半のリュケン氏は岸田の制作に見られる写真性を指摘した、興味深いプレゼン。少々早口すぎるとは思ったが、回転の速い発表だった。広島についての画像を論じた本をフランス語で出している。後半は文学研究的な発表。谷崎が言及した写真の用法を腑わけするような内容。少々量が多くて聞きつかれた。ということで最後のまとめ討議はほぼ時間はなかった。
 が、日本写真史の紹介としては基本編というよりもいきなり応用編から入ったようなシンポだった。欲を言えば、、、第一に、モダニズム写真の複数性を問う議論は、もうすでにかなりの議論が英米ではなされている。これはもう少し前面化できるのではなかろうか。第二に、これと結びついて、、、だから「芸術」写真という収斂点にもすでに留保はつけておくべきではないか。これは写真「史」研究が往々にして不問にしている点。第三に、やはり前提となる教科書的な日本写真史1900−1940ぐらいは何かで紹介がなされるべきだろう。これがないと聴衆は議論の前段階がわからなくなってしまう。
 とあれこれ意見はあるけれど、この規模でこれだけの活発な議論がなされるのはいいこと。ちょうど金子さんの日本写真集史本も各本屋で大々的に販売されていた。

Modern Photography in Japan 1915-1940

Modern Photography in Japan 1915-1940

Japanese Photobooks of the 1960s and '70s

Japanese Photobooks of the 1960s and '70s

以上、同時通訳を通してのことだがだいたいの感想。

■業務ふたたび
で、業務。午前ゼミ発表2本さばき、午後会議3つとガイダンス。

コンポラの発表は言説検討が進行中で作品分析とのバランスがとれそうな気がする。ローゼンバーグの発表は博論の一部がようやく滑り出したという感じ。