大会終了

記号学会終了
 というわけで東京での大会終了。
 初日はマイコンブーム創世記という枠組みでヴィデオゲーム成立前後までが語られ、続くオンラインゲームの対論が続き、二日目のシンポでヴィデオゲームにより全面化した問題を討論するという流れでした。

 あほまろさんの話は、下記に書く創世記の話も興味深かったが、死なないペット育成ゲームへの関心がちょっとぶっ飛んでいて面白かった。もちろん、死や生云々というよりも、複雑な自動処理プロセスが分岐して螺旋を描いて身体を変に駆動する快楽装置として、ゲームを現在も肯定しているということだと、勝手に解釈している。

 私はあくまでも司会として参加しただけでしたが、他のセッションでも、自身のセッションでも結構面白いやりとりがありました。協力していただいた皆様(河田氏、吉田氏、松本氏、そしてフロアの皆さん)には感謝。松本氏は会場の設営や指示も受け持っていたので、おそらく疲労困憊でふらふらだったと思いますがお疲れ様でした。

 プレイヤー=プログラマーであった、ゲームをプログラミングすることもゲームの主要部分であるマイコンブーム時代、まるでアマチュア無線家のごとく機材をかき集め、少数の集団的知的ゲーム製作のゲーム的コミュニケーション行為というものが当然であった時代があり(これはゲーマー=ハッカー的問題にもつながるし、電波メディア論としても戦前のそれと比較可能な布置でしょう)、そのゲームがTVスクリーンという一方通行的な画面に情報を映し出す画面の時代へと移行し、さらには、もはやプログラマーのみに限定されない大量の消費者を巻き込むビデオゲーム画面が成立し、そのインターフェース的価値の前景化した手前で分裂的記号を操作する快楽の時代に移っていき、プログラムに加えてプレイヤーの認知レベルの複雑なレイヤーがゲームを考えるひとつの出発点になるという話でした。

 もちろん、ゲームというカテゴリーの問題としてゲームのスペクトル全体はつねにおさえておかねばならないし、ゲームが他メディアと相互参照している動態も視野に入るでしょうし、「ゲーム」の含意を拡張して哲学的文明論的視点も補わねばならないし、コントローラーの問題で全面化したある種のパラドキシカルな過程、インターフェースの摩擦、センサー装置の進展、ゲームの自動処理という問題、快楽やアディクションの問題、さらにはゲーム業界の資本の動きや分割なども射程に入れねばならないな、ということが分かりました。そして、携帯ゲーム的なもののプログラミング可能性、ゲームのリデザインやトランスフォーメーション、インター/アクティヴィティの問題、ゲーム批評としてのニコ動画面の問題なども、ここに付け加えるべき問題です。どれかひとつだけでもパネルひとつくめそうです。

…という、私はほぼ一夜漬けに近い準備だったのですが、パネリストの方々のおかげで、視覚文化論ヴィデオゲーム画面論というのもありかなと考えはじめることにしました。

 もちろんシンポ自体が「長い」という指摘も受けましたが、あれぐらいの長さでないとゲーム研究の問題点は出てこないだろうと思ったのでそれはご容赦。
 ともかく、面白い機会をもらい、ありがとうございました。
ルールズ・オブ・プレイ(上) ゲームデザインの基礎