ナナフシの恐怖

ビバリウム
久々にディディ=ユベルマンのナナフシ本。その前にナナフシの生態を調べる。
調べていて買いそびれていた動物の記号論を発見して購入。

動物の記号論

動物の記号論

ナナフシを含めた立体写真集も発見。ナナフシはステレオフォトジェニックである。
寄り道をしつつ植物園の話に向かう。

 植物園はある種のビバリウムである。ビバリウムとは生態動物(植物)飼育所という意味であり、その生物が暮らしていた自然環境に「似せて」作り出された実験場や施設である。古代においては、戦いの際に敵に放つために、こうした飼育場にさまざまな動物を飼っていたという。そこには死の沈黙が支配していた。そうした生物は音を立てずにいるほど、敵にとってはたちの悪い効果的な生物だったからである。
 ところが現在のビバリウムではガラスケースを叩く子どもたちの声が響いている。ガラス板という硬く透明な板が不可視で安全な境界面を与え、偽りの危険性を彼らにつかませているのである。ひとたびガラスにひびが入れば、それまで毒蜘蛛の針をガラス越しに撫でていた彼らはすっかり引いてしまい、逆にクモたちはその裂け目からこちらに出てこようとする。
 ビバリウムでのガラスの前での遊びの本質は、そこにいる動物を識別することにある。ビバリウムの語源は生命を意味する。まさに生命を示す施設がビバリウムなのである。ところが時としてじっとして動かない生物もいる。クモや蛇を木々や石の間に見つける遊び、それがこうした展示ケースを見る醍醐味である。しかし場合によっては、ケースが空であったり、使用されていなかったり、修繕中であったり、標示はあるもののまだその生物が容れられていなかったりする場合もある。
 ビバリウムを前にした際に生じるどことない不安、まずここから話は始まる。
 ナナフシのケース。標示にはナナフシとある。ところが腐ったかのように見える葉しか見ることができない。さそりならばその葉の間から尾が、他の生物にしても少なくとも頭ぐらいは見えるはずである。そうした生を示す部分がどこにも見当たらない。
 ここでディディ=ユベルマンは、洗礼者聖ヨハネの切り落とされた首の話を始めるのである。皿に載せられて運ばれてきた首、これにマラルメはある序文のなかで「出現する」という語を付与している。この文章を読んだ読者は、その途端に取り憑いて引き離せない恐怖に襲われる。切断された頭部から亡霊のように立ち上がるもの。
 それではこの逆の恐怖を思い描くことはできるだろうか。頭部のないことに本質があるような現われのかもしだす取り憑きの恐怖のことである。正確に言えば頭の欠けた胴体だけでもないし、頭だけでもないような、同時にその両者でもあるようなものが現われること、そこにナナフシの引き起こす幽霊的な恐怖がある。
ナナフシphasmeの語源は幽霊phasmaにある。

今日はこんなところで終了。以下つづく。
…ちなみにナナフシはヨーロッパではペットとして日本のカブトムシに匹敵する人気があるという話。