回路人形もの

回路 デラックス版 [DVD]
■回路
 黒沢の『回路』が面白いのは、「ある」と「ない」が通常のものとは逆転しているところにある。つまり、「ない」ものが「ある」に変わる恐怖映画が多いのに対して、この映画はひたすらあるものがなくなる。なくなることが反復される。つねにつきまとう隔たり、遍在する影、消失の後の痕跡、こうした手がかりを介して、「ある」ものの希薄さが散りばめられ、あるものの消失が繰り返される。そしてそうした諸要素を束ねているのが、主観的でも客観的でもないどこにでもあり、どこにもない隔たった視点である。逆に、ないものがある、つまり幽霊の表現も特徴的である。それはつねにどこにでもある。それはけっして消失してはいないのである。例えば、幽霊を加藤晴彦がつかんでしまう前後の、幽霊がけっして消えないシーンがそれだろう。もちろん、『ほん怖』を参考にした(と言われている)あの幽霊の歩くシーンもある。これは一見するとないものがある表現のように思えるかもしれない。でもそれも消えない。
 以上メモ。あるものがなくなりつづけ、ないものがありつづける奇妙な心霊映画。
 さて次。


■蝋人形本決定版
 以前書いたが、蝋人形研究者の方から御著書のお知らせメールを頂いた。以前菊人形資料でも検索でことごとくお名前を見かけた川井さんの本である。決定版とも言うべき内容で非売品(限定200部)なのだそうだ。
 本の目次を見ただけで卒倒しそうになった内容。このスペースで長大な目次すべてを紹介することはできないので、部分的に紹介させていただきます。

川井ゆう著 『迫真の境地−実物どおりに着彩された等身大の人形の歴史〈欧米篇〉−』2004年7月、ふみづき舎

はじめに
第1部 王のふたつめの身体
第一章 イングランド
1 王のぬけがら/2 フューネラル・エフィジーの誕生/3 動き出す/4 「死」への思い/5 「見せる」対象へ/6 世俗化と大衆化/7 第二の役割/8 永遠の栄光

第二章 フランス
1 死相の折衷/2 写実性/3 フランスの独自性/4 宗教と政治の闘い/5 内戦の果てに/6 王の最後のフューネラル・エフィジー/7 ロイヤル・サークル/8 隣国ドイツ

第一部のまとめ
第2部 医学と宗教 アルプスの北と南
第三章 イタリア
1 煮るか切るか/2 人体解剖まで/3 医師と製作者/4 奉納細工/5 ロレンツォ暗殺計画/6 「まるで生きているような」/7 ダ・ヴィンチミケランジェロ

第四章 ヨーロッパ
1 アルプスを越える/2 ヴェサリウス/3 十六世紀後半の解剖学/4 チゴリの「筋学的小像」/5 スペイン/5−1  サラマンカ大学/5−2  十六世紀の奉納細工/5−3  十七世紀の奉納細工/6 もっとも偉大な製作者 木の神 引っ張りだこ/7 十七世紀の解剖学/8 ズンモの「小さな劇場」/9 ズンボの解剖学的頭蓋/10 「生」への思い/11 医師と博物館第二部のまとめ

この後、第三部の18世紀、第四部の19世紀、第五部の20世紀初頭のドレスデン衛生博覧会まで話は続き、第六部に現在、さらには蝋人形研究史が辿れる章がついている。凄いの一言につきる。


■もの写真
 昨日挙げたバッチェン本を通読している。例えば次の写真を見てみよう。ヴァナキュラー写真、あるいはもの写真の一例。

胸に花を付け、白い衣装を着た女性はその右手で、額縁に入れられた別の女性の写真を覆う布を少しだけあげ、その像をこちらに見せるポーズを採る。像の女性はすでになくなった人物であろう。つまり、この二重ポートレートは、生きている者と死んだ者を同時にフレームの中に収めている。バッチェンが言うには、ここでは撮影という行為が同時に、想起するという行為へと切り替わっているのだという。さらに言えば、被写体が亡くなった後には、被写体の視線の先にいる観者は、見せる行為をする被写体の想起の行為をもう一度想起することになる。
 もちろんこうした例には、写真の中で写真や写真アルバムを見ている写真もある。そしてとくにダゲレオタイプにおいて肝心なのは、その写真ケースに触れている手であったりもする。これはまたあらためて。