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■読書会
第一章から第二章半ばまで。
クラウスもマノヴィッチもキットラーも切り捨てていく議論はたしかに読み応えはある。いやマノヴィッチの複雑そうで実は単純な議論は、こういうふうに切ってしまうこともできるというのは確か。ただし神経科学や現象学を参照して持ち出される触覚や原感覚的ソースの話が、どこまで新たな基礎になりうるのかというところが気にはなる。そしてさらに言えば、実はハンセンの議論はニューメディアの理論でなくともよいのではないか―たまたまメディアの収斂という事態と、本質論的に想定された人間の生の哲学なるものとがパラレルなのだと言っているにすぎないのではないのか―とも読めてしまう。もう少し読み進めてみる。
■構造
もとどく。構造映画については日本語で読むことのできるまともな資料がなかなかない。今のところアダムズ・シトニーの邦訳のみ(しかも批判もあれこれある)。困る。